哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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病院のベッドの上で書いている。少し前にすい臓がんの切除手術をした。さいわい手術はうまくいったが、術後は10本のチューブに繋がれ、痛みで身動きもできない状態であった。それでも毎日一つずつチューブが外れ、そのつど身体の自由度が増す。先ほど腹に刺さっていた体液を排出する管が外れて、ようやく「チューブレス」になった。久しぶりに人間に戻った気がする。
一番つらかったのは、自分の尿を溜めた袋と、腹から漏れる体液を溜めた袋をぶらさげて車椅子で病院内を移動することだった。ふつう自分の排泄物や体液を不特定多数の他者の視線にさらすということはない。むろん誰も私の体液なんか見たりはしないのだけれど、それでも身が縮むほど恥ずかしかった。自分が自分の身体と繋がれていること自体が恥ずかしかった。
その時、私の師であるエマニュエル・レヴィナスの言う「自分が自分自身に釘付けになっていることの不快」という言葉の意味が身に沁みてわかった。痛みで動かない身体や漏出する体液が「私」なのだと知ると救いのない気分になる。
おそらく私たちが求めているのは、ありのままの自分の身体「であること」ではない。でも、別の身体に乗り換えることはできない。できるのは、自分に与えられた身体から「ちょっとだけ離れること」だけである。
「自由」というのは、要するにそれまでいたことのない場所にいたり、それまでしたことのない動きをしたり、使ったことのない部位を操作したりすることが「できる」ということである。自分が可塑的存在で、それまでの自分とは違うものになり得ると感じるということである。
病気や怪我は私たちが「自分の身体という牢獄」に閉じ込められることを思い知らせる。私は私の身体に釘付けになっており、この繋縛(けいばく)だけがリアルなのだ。そう冷たく宣告する。「この体液がお前なのだ」と。
その時、なるほど「健康である」というのは「自由である」と同義なのだということが腑に落ちた。私ひとり腑に落ちられても読者は困るだろうが、こちらも病人であり、仔細に説明する気力がないのである。ご海容願いたい。
※AERA 2024年12月30日-2025年1月6日合併号