アメリカ政府が、日本軍の北部仏印への進駐に対する最初の「経済制裁」を行ってから約半年後の1941年3月8日、中国とアジアにおける政治と軍事の問題解決に向けた日米交渉が、本格的にスタートしました。駐米大使野村吉三郎と米国務長官ハルによる日米交渉が進められていた時、ハルは「日本に対する政治的・軍事的圧力を強めすぎると、逆に日本政府内の対米穏健派の立場を弱めることになり、最終的にはアメリカにとっての不利益を生む」との認識から、理性的な交渉の継続をルーズベルト大統領に進言していました。
1932年の着任以来、日本国内の政情をつぶさに観察してきた「知日派」の駐日大使ジョセフ・グルーも、ハルとほぼ同意見でした。しかし、7月23日に日本軍が南部仏印への進駐を決定(実際の進駐開始は7月28日)すると、状況は一変します。先に挙げた北部仏印進駐の場合、日中戦争に関連する「ハイフォンルートの遮断」という大義名分がありましたが、南部仏印進駐については、米領フィリピンや英領マラヤおよびシンガポール、蘭領東インドの安全を直接的に脅かす「出撃拠点の確保」という、アメリカにとっては見過ごすことのできない意図が込められていたからです。
この事実を知ったルーズベルトは、従来のような宥和的な対応では日本の政策に対処できないと考え、「対日強硬派」の意見を採り入れた新手を立て続けに打ちました。まず7月24日に「日本軍が仏印から即時撤兵すれば、米政府は英中蘭各国に働きかけて、仏印を完全な中立状態に置く努力を行う」との提案を日本政府に送る一方、翌7月25日には在米日本資産の即時凍結を発表、8月1日にはモーゲンソーらが主張し続けた「対日石油輸出の全面禁止」という、最も強い切り札を繰り出しました。アメリカ政府内における「対日宥和派」の発言力は、日本軍の南部仏印進駐が行われた1941年の夏以降は急激に低下し、スティムソンやモーゲンソーら「対日強硬派」の発言力を相対的に強めることになりました。
また、アメリカの実質的な同盟国であるイギリスとオランダも、日本資産凍結や日本との通商協定破棄を行い、日本に対する経済制裁に加わりました。これに対し、日本側は9月6日の御前会議で「対米戦争を覚悟する決意の下に、10月下旬を目途として戦争準備を完了させる」との方針を決定します。米政府との外交交渉は、引き続き継続するものの、10月上旬になっても相手が日本側の言い分に耳を傾けないなら「ただちに対米開戦を決意する」という、交渉破棄の期限を定めた内容でした。