芸能事務所は主戦場をテレビと見据え、タレントは視聴率に繋がる「好感度」という物差しに左右されるようになる。エンタメ界で量産されるのは不特定多数に好まれやすいバラエティー番組で、良質な映画作品が受け入れられる余地は少なかった。
この時期に「死の棘」が国際的に評価されたことは、寄る辺なさを抱える岸部自身にとっても、その後の俳優人生を位置づける大きな出来事だった。
「誰と出会い、誰と一緒にやっていくのか。それが一番大事。タイガース時代も含めて、すべてはそこへ繋がっていくよね」
岸部が樹木希林の事務所「夜樹社」の解散後、いくつかを経て自分で事務所を設立したのはバブルが弾けて間もない、95年のことだ。
「小さい事務所だからできることもある。映画やドラマの脚本を読む。CMだったらコンテは面白いのか。どうやって相手に正論を伝えるのか。自分の基準で面白いと思える仕事を選んで、そこでの闘いみたいなものがあって。そんなことを続けているうちになんとなく面白そうな事務所ですね、っていうふうになればいいなと思ってやってきた」
18年に亡くなった樹木は「三つぐらいの側面を見せて終わった気がする」と語る。
「希林さんは30代の若いころからおばあちゃん役をやったりして、ちょっとワケわからないことをしたり、むつかしい、怖い人みたいに見せるから、自分の俳優としての技術や、すごさを隠そうとする時期があったように思います」
それが変化したのは夜樹社が解散する前だ。80年代に入り、芝居のうまさで世間から注目されるようになった。
「あのころ、希林さんは、上手な芝居を少し、見せるようになったなと思った。そこからひねくれてるというようなイメージも取れてきて。晩年の作品を見ると、俳優としてのすごさよりも人間の優しさが溢れているようにも見えた」
岸部はこの日、取材場所の朝日新聞社のビルまで、地下鉄東銀座駅から歩いてきた。