ザ・タイガース。沢田研二(右)、岸部(左)写真提供=(株)アン・ヌフ
ザ・タイガース。沢田研二(右)、岸部(左)写真提供=(株)アン・ヌフ

「トーク番組もバラエティーも見たりはします。ただ、俳優が演じるだけではなくてしゃべることや、自分自身を語ることが得意じゃないんですよね」と吐露する。

「苦手なものを克服してできるようになるのがいいという考え方もあるけど、そんなに広げなくても三つぐらい苦手があったら、一つくらいは『これは苦手』というのを置いておいてもいい」

 音楽をやめてしばらく仕事がない時期を漂いながら、岸部はひたすら、自分について考え続けていた。

「やりたいことがあって音楽をやめたわけではなかったし、考える時間はたくさんあったから。たまたま勧められて俳優になった。芝居の勉強もしていないし、僕は得意なものがそうないから、苦手はなんだろうと考えた。たとえば人前でしゃべるのは不得手だから、じゃあこれは残そうと」

 それは、映画「死の棘」(90年)で、小栗康平監督にたたき込まれた「言葉にする前の気持ちの動きこそが大切だ」という教えとも、のちに繋がっていく。

 俳優という不安定な稼業で、心配に苛(さいな)まれる場面は多い。演技の技術について、私生活のこと、健康の維持、将来の不安──。それらを払拭しようと思えば、やれることはたくさんある。踊りや乗馬を習ったり、休日に芝居や映画を見たり、人付き合いをよくしたり。だが、岸部は心細さの解消のために働きかけようとは思わない。あえてそのまま留めておきたいという。

 動けば安寧を得られるかもしれない。その代わり、不安という感情の動きは心から押し出され、微妙な揺らぎは掌(てのひら)からこぼれ落ちる。

人生後半戦の坂どう下っていく

 岸部が俳優の世界に足を踏み入れてほどなく、日本はバブル経済の80年代に突入した。

 政治の季節の残滓(ざんし)を狂乱の宴で上書きするかのように、世の中全体が浮足立っていた。テレビは昼夜なく「楽しくなければ」と謳った。一方、どん底ともいえるのが、娯楽の王座をテレビに明け渡した映画産業だった。週刊朝日が最高部数150万部を記録したのと同年の58年、11億2700万人をピークに映画人口は激減し、80年代には1億5千万人規模にまで縮小している(日本映画産業統計)。

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