社名は1991年に変更。園芸用品のブランドに使っていたアイリスと姓の大山を合体した。会社のロゴにある花は子どもたちに好かれるハート形を変えない(写真:街風隆雄)
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「AERA dot.」に最近掲載された記事のなかで、特に読まれたものを「見逃し配信」としてお届けします(この記事は10月21日に「AERA dot.」に掲載されたものの再配信です。年齢や肩書などは当時のもの)。

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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年10月21日号では、前号に引き続きアイリスオーヤマの大山健太郎会長が登場し、「源流」である大阪府東大阪市を訪れた。

 父が働きに出て家計を立て、母が家事を受け持って子どもを育てる、という姿が、かつて日本社会の大半だった。だから、子どもたちは社会人としてのモデルを、「働く父」にみた。

 一方、母は「何があっても自分の味方」と言える、優しさばかりの存在。たとえ厳しく叱られることがあっても、子どもたちの心のよりどころだった。

 企業などのトップには、それぞれの歩んだ道がある。振り返れば、その歩みの始まりが、どこかにある。忘れたことはない故郷、一つになって暮らした家族、様々なことを学んだ学校、仕事とは何かを教えてくれた最初の上司、初めて訪れた外国。それらを、ここでは『源流』と呼ぶ。

小中学校は家のそば ベルが鳴ってからいっても間に合った

 この8月、大山健太郎さんが「働く父」をみて過ごした大阪府東大阪市を、連載の企画で一緒に訪ねた。5歳のとき、父は市内で飴づくりの町工場を始めたが、中学生のころにやめて転居し、プラスチック成型の大山ブロー工業所を開業した地だ。大山さんがビジネスパーソンとしての『源流』が流れ始めたところ、と挙げる地でもある。

 工場と自宅が並んでいて、姉妹と弟が計7人いた。父母は、長男の健太郎さんに「大学へ進み、大きく羽ばたいてほしい」と願った。でも、高校3年生の夏、父が胃がんの末期にあると医師に告げられ、進学は断念。翌年夏に父が亡くなると工場の代表者を19歳で継ぎ、従業員5人とブロー成型機を動かした。

 通った小学校は自宅の斜め横にあり、始業ベルが鳴ってから家を出ても、担任教諭が教員室から教室へくる前に、間に合った。中学校も真向かいで、同様だ。夏休み中の中学校へ入れてもらうと、校庭で運動部員たちが練習していた。すると、大山さんは校舎側の一角を指さして「私がいた卓球部は、あそこで練習していた」と言う。短い言葉に、感慨がにじんでいた。

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映画づくりで知った「構想」の大切さが製品開発に重なる