供給側のトップで、一緒に検分したのがチャック・ロックハートさん。今回も、島へ同行してくれた。91年末にシアトルを離任して東京の本社へ戻ったので、32年余りがたっている。

 ケチカン空港の前は入り江で、空港ビルから坂と階段を下り、エンジンを起動していた水上飛行機に乗り込む。離水して島々の上空へくると、市川さんが窓からじっと眼下の森林をみている。ときに、スマホで写真を撮った。右手の島に、がいた。

 ロングアイランド島の脇に、着水する。島は、ほぼ変わっていない。ただ、約200人いた作業者と家族の姿はなく、来客用にも使っていた小屋があるだけ。入ると、ベッドや事務机などが、同じように置いてある。いま常駐者はなく、「無人島」と言っていい。

 小屋から車で島内へ進むと、開けた場所へ出た。集めた丸太を検分した集材地だ。古く、周辺の海域は氷河だった。融けた後の岩々が島の土になったが、場所によって成分が違い、木が育つ条件に差がある。ロングアイランド島は条件がよく、いい木が採れた。集材地の片隅にツガの原木が一つ、残っている。

 ここでは、何よりもフェアネスだ。「戦友」とも言えるチャックさんが振り返る。「他の会社とも付き合いはあったが、住友林業との取引は最高だった。とにかくフェアでイーブン(対等)。互いにいろいろ言い合ったが、客やキャンプの人たちにとって何がいいかの話で、自分だけがいいところを取ろうということではない。どうすればもっと価値を出せ、客に喜んでもらえるかを、話した」

 2人とも単身できたから、夜はよく飲んだ。「戦友」には、多くの言葉は要らない。チャックさんはビール党で、冷蔵庫でよく冷やし、付き合った。

帰りも上空からスマホで島を撮影「別れ」の感慨込めて

 再訪は、島へ黒い雲が近づいてきたので、予定より早く島を離れる。上空へ出ると、市川さんは帰りもスマホで島の写真を撮る。もうくる機会があるか、分からない。「別れ」の感慨を込めた、横顔だった。

 1954年11月に兵庫県尼崎市で生まれ、小学校4年生のときにカブスカウトへ入り、6年生からボーイスカウト活動を続けた。10代半ばで、富士山麓であった日本ジャンボリーへ参加。世界中からきた面々を日本の家庭が受け入れ、自宅にも米国人が泊まって、初めて外国人と寝起きをともにした。

 関西学院大学の経済学部時代には、尼崎市と友好関係にあった中国・鞍山市への青年訪中団に選ばれ、初めて海外へ出た。

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