宇宙からの帰還は「奇跡」

 日本で2カ月、アメリカで半年間の研修を受け、17年1月に樋口医師はJAXAのフライトサージャン資格を取得した。その直後にISS(国際宇宙ステーション)フライトサージャンにも認定され、金井宣茂(のりしげ)宇宙飛行士の専任フライトサージャンとしてアメリカのヒューストンに赴任した。「金井さんは僕が落ちた08年の宇宙飛行士試験の合格者。ご縁を感じました」

 宇宙飛行士の心身の健康管理を長期間担う仕事は「産業医と似ている」と樋口医師は言う。
「宇宙という職場環境を私たちも徹底的に学び、そこで耐えられる健康状態にして送り出すのです」

 打ち上げ時にはジョンソン宇宙センターで見守り、緊急事態が起きた場合には関係部署と連携して対応に当たる。「最も危険なのは打ち上げ時と帰還時です。医師にできることは祈るだけですが、万が一の準備は怠りません。『骨折したら』『意識を失っていたら』などさまざまなケースを想定して、動ける準備をしておきます」

 無事にISSに到着したあとは、モニターで宇宙飛行士の健康状態を見守り続ける。週1回オンラインで面談し、船外活動のときには心電図や宇宙服の酸素濃度などをリアルタイムでチェックする。

 

ISS(右/提供:JAXA/NASA/Bill Stafford)は地上約400㎞に浮かぶ実験施設。各国から計6 人の宇宙飛行士が約6 カ月間滞在し、専任フライトサージャンはジョンソン宇宙センターで見守る。提供:JAXA/NASA

「初めて金井さんの船外活動をモニタリングしたときは、正直とても怖かった。理論は十分学んでいても、予測不能な事態が起きる可能性がありますから」

 宇宙飛行士の状態によっては、フライトサージャンがドクターストップをかける場合もある。

「命を失う可能性がある場合には、ミッション中止の依頼ができる立場です。その場合は各国のフライトサージャンと相談して決断します。幸いまだそんな経験はありませんが、そのときには勇気をもって決断しようと思います」

 そして宇宙飛行士が宇宙から帰還する場面にも立ち会う。

「着地時に骨折したり、目標地点から離れた場所に漂着したりする可能性もあります。無事に帰還するのは当たり前ではなく、さまざまな対策を重ねたうえでの奇跡。そうでない場合も想定して、しっかりと準備をしておきます」

 

21年、ISSに165日滞在して帰還した野口聡一宇宙飛行士。樋口医師(左端)も出迎え、帰還直後の医学検査へ。「宇宙飛行士の笑顔をみると安心します」と樋口医師。提供:JAXA/NASA

 フライトサージャンを目指すのに、有利な診療科はあるのだろうか。

「ないと思います。どの診療科でも、責任をもって診察できるだけの能力や専門性を持ち、医師としての能力を高めることが大切です」

 宇宙に飛び立つ夢は、まだ胸の内に残っている。

「今後一般の人の宇宙旅行が現実になれば、医師の添乗サービスがつく可能性があります。そうなったら私も宇宙へ行きたいですね」
 


AERAムック『医学部に入る2025』より


(文/神 素子)

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