中学校は自宅の真向かいで、1年生で先輩から卓球部へ誘われて入ると、部員が少ないのですぐに練習を重ね、半年くらいで腕が上がって東大阪市の中学校大会で優勝する。すると翌年、一気に30人ほどが「やりたい」と言ってきた。でも、卓球台が少なく、全員で練習できない。卓球台をつくっている会社を電話帳で調べると、近くにある。部員2人と一緒にその会社へいって「お金がないけど」と頼むと、安くつくってくれた。

 府立布施高校へ進むと、映画を観て感想や批評を学校新聞に出す映画研究会へ入る。多い月は30本以上観て、将来は映画監督になりたい、と思っていた。

 文化祭のとき、研究会で8ミリカメラの短編映画をつくり、シナリオを書く。ここで、単に観て楽しいというよりも、観客が「こんなのをみたい」と思う映画をつくる構想が大事だ、と考える。この発想が、いま、消費者が「こんなのがあったら」という製品を次々に開発して、ヒットさせている原型だ。ビジネスパーソンとしての『源流』が、流れ始めていた。

 高校3年生の63年夏、父が手術を受け、夏休みに母と一緒に医師に呼ばれて「胃がんで余命は1年ない」と告げられる。母や家族と相談して告知はしないことに決めた。同時に「弟や妹も多いし、従業員5人の生活もある。これは天の定め、家業を継がなければならないから大学にはいけない」と覚悟する。

下請けで終わらない養殖用の浮き球が自前の製品の第1号

 父は翌年7月に亡くなった。19歳になったばかりで工場の代表者となると、回ってくる下請け仕事は、朝8時から夜8時まで働いても利益が出ない。従業員が帰った後、深夜まで1人で機械を動かし続け、やがて売り上げが伸び始めると、「このまま、下請け工場の親父で終わりたくない。何か、自前の製品を手がけたい」と、欲が出た。

 ブローでできるのは何か、考えた。目をつけたのが真珠の養殖用の浮き球だ。当時、浮き球は、ガラス製を使っていた。でも、重くて扱いづらいし、落とせば割れる。ある人に「あれをブローでつくったらどうか」と助言され、「それなら自社技術でやれる」と決めた。競争相手は2社だけ。勝ち易いところを狙う大山流のスタートだ。

 71年4月に大山ブロー工業株式会社を設立し、25歳で社長に就任。潜在ニーズをみつけ、買い手の値ごろ感に合った価格で売り出した第1号の浮き球で、家業を継いだときは500万円だった年商は200倍の10億円に届くまでになり、従業員は約30人に増えていた。

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新商品の開発会議は会長に退き傍聴だけでも、工場はのぞく