本社の仙台移転のころ主任以上の社員たちに年3回目のボーナスを自社株で出し始めた。「社員があっての会社」が企業理念だからで、上場しないのも同じだ(写真/狩野喜彦)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年10月14日号より。

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 1980年代後半に入ったころ、友人に誘われて、4月末からの大型連休前に海釣りへいく日の早朝だった。肌寒いので厚手のセーターを着ていこうと思い、衣類をしまってあるプラスチック製の収納ケースを探す。だが、みつからない。ケースは不透明で、外から中に何があるか分からないので、ひと箱ずつ開けていくしかない。

 そのとき、閃いた。

「外から中がみえる透明な収納ケースをつくったら売れるな」

 早速、プラスチック樹脂を扱う企業に材料があるか、問い合わせる。だが、量産しやすく安く売買される不透明な樹脂に比べて、コストもかかる透明なものは需要がなく、「うちにはない」との答えが続く。でも、諦めずに探すと、注射器用に手がけている企業がみつかった。

 ただ、特殊な用途の少量生産だから、価格が高い。そこで、かなりの量を買い入れることを約束し、その企業と安くつくる方法を共同開発した。消費者に「こんなものがあったら、便利だ」と思ってほしい。その熱意が実を結び、コストを不透明な樹脂より2割高まで下げた。同業者らは「まだ高いから、売れない」と言ったが、89年に発売すると、驚くほど売れた。米国でも、広く支持された。

 まだ世に普及していない「こんなものがあったら、便利だ」という潜在ニーズをみつけ、誰でも手が出る価格で売る。需要を引き出し、市場を押さえる。この手法で、いま家庭用品から家電製品、食品や健康関連品など、2万5千の製品を揃えている。キーワードは「構想力」と「値ごろ感」だ。

父の下請け工場は従業員5人だけで生活の一部だった

『源流』は下請け、孫請けの町工場が集まって「ものづくり日本」を支えた大阪府布施市(現・東大阪市)で過ごした、若き日々だ。終戦前の1945年7月、大阪府道明寺村(現・藤井寺市)で生まれた。姉が1人、妹が2人、弟が4人の8人兄弟姉妹の長男で、2歳で布施市へ転居。父・森佑が飴の工場をつくり、母・敏子も働いた。

 布施第一中学校(現・長栄中学校)へ入ったころ、父がプラスチック成型の大山ブロー工業所を開業した。ブローは、熱で溶かした樹脂に空気を吹き込み、中が空洞になった容器などをつくる製法で、父は下請けでシャンプー容器などをつくっていた。従業員は男性2人と、近所のパート女性3人。自宅と一体のような工場は、生活の一部と言えた。

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下請けで終わらない養殖用の浮き球が自前の製品の第1号