態度に表すと「傲慢」に
藤ヶ谷:自分のなかの感覚のレパートリーが増えたというか。たとえば、「わがまま」や「自己中」といった言葉で片づけていたことも、「それってもしかしたら傲慢ってことなのかな」「でも、その奥にはきっとその人なりの善良さがあって」と考えるようにもなりましたし、「人間ってそういうものなのかな」と想像を膨らませることもできるようになりました。「自己中だよね」と言われるよりも、「傲慢だね」と言われた方が深く傷つくと思いますし、ガツンとパワーがある言葉だな、とも感じます。本を読んでいても、「善良な市民」といった言葉が出てくるだけで、思わず反応してしまうようにもなりました。
奈緒:私は「傲慢」という言葉を、改めて辞書で調べてみたんです。そこで、相手を見下したり、心のなかで考えていたりするだけだと「高慢」だけれど、それを態度に表すと「傲慢」になると知りました。考えをアクションに移すことで「傲慢」という言葉が生まれるのだとすると、“傲慢の種”って実は色々なところにあるのではないかな、と感じて。「傲慢」とまではいかずとも、人は誰かと比べることで心のバランスを保っていたり、深く知らないのにもかかわらず見下してしまったり、そうしたことって起こりうることなのではないか、と自分に問うようになりました。最近は、いい意味で“一瞬の迷い”のようなものが生まれるようになりましたね。いま、自分が口にしていることは正しいのだろうか、なんのために私はいまこれを言っているのだろう、と。
藤ヶ谷:すごくわかる。
喉を休めない二人
奈緒:少し立ち止まって考えるようになったので、この言葉が自分のなかにある、というだけで言葉を発する際の責任感みたいなものは強くなったな、と思います。
藤ヶ谷:いま、こうして話していても、果たして自分はそれができているのか、という思いもあります。難しいですよね。たとえば、トーク番組などではその時の流れってありますよね。前後の流れがあり、必ずしも本心ではないけれど、あえてその時はその言葉を口にした。同じ空間にいる方々はみな笑ってくれたけれど、それから時間が経ち、会話の前後が削られ、盛り上がったところだけが切り取られた時に、果たしてその言葉を口にして良かったのだろうか、と後から考えることはあります。全員に好かれようとしているわけではないけれど、誰かを嫌な気持ちにさせていないかな、と考えることはありますね。