哲学者の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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兵庫県知事のニュースを見ながら、日本の男たちはどうしてこんなに底意地が悪くなったのかを考えた。
今の日本社会では「上司が下僚に屈辱感を与えること」はほとんど制度化している。問題はそれが特段の害意なしに、日常的に、挨拶代わりのように行われていることにある。なぜ日本の男たちは「人に屈辱感を与える」ことにこれほど勤勉になったのだろう。
私の仮説は、これは終身雇用・年功序列制度を放棄して、雇用の流動化を図ったことの帰結だというものである。昔はふつうの会社では勤務考課ということが行われていなかった。誰でも一定の年数勤めると自動的に職位が上がった。査定は「能力の高い人間にはより困難なタスクが与えられる」というかたちで行われた。能力の高い人も低い人もそれを喜んで受け容れていた。だが、日本が貧しくなり、分配できる「パイ」が縮み出すと、そんな牧歌的な人事ができた時代も終わった。個人の能力は成果に基づいて数値的に表示され、その得点順に資源が配分されるというのが新しいルールになった。メンバー同士の相対的な優劣がまず問われ、そもそも自分たちはいかなるミッションを果たすためにここに集まって協働しているのかを問うという習慣がなくなった。
黒澤明の「七人の侍」に平八という侍が出てくる。彼をリクルートした五郎兵衛は「腕はまず中の下」と査定する。だが「話しているとこちらまで気持ちが晴れ晴れしてくる。長戦(ながいくさ)では重宝する男だ」。
五郎兵衛の下した考課は正しい。集団にとって最優先の問いは、メンバー間の相対的優劣の査定ではない。その人が集団のパフォーマンス向上にどう貢献するかである。組織論の基本である。けれども、この風儀は廃れて久しい。
今は上意下達をふりかざし、下僚に強いストレスをかけて萎縮させ、従順だが非活動的な集団を創り出す人間のことを「管理能力の高いリーダー」と見なすようになった。人に使われる立場の人までがそれを真似て、目下の人間を萎縮させ、心理的に追い詰めることを本務の一部と思いなすようになった。国力が衰えるのも当然である。
※AERA 2024年9月23日号