逐客令によって外国人を追放していたとしたら、秦による統一は実現しなかったと思う。

 歴史とは、つねに偶然の連続である。呂不韋と父子楚の出会いから始まる秦王嬴政の即位までの過程はまさに偶然の事象であった。

 その後は五ヶ国合従軍の侵入、弟成蟜(せいきょう)や嫪毐(ろうあい)の反乱、李牧軍に敗戦、荊軻(けいか)による暗殺未遂事件など、たどってみると、秦王嬴政にとって多難な道であったことは間違いない。近臣集団に支えられながら、何とか統一の道を進んだのである。

 始皇帝と近臣集団の関係は、始皇帝の死によって次代に受け継がれるものではなかった。二世皇帝胡亥(こがい)は、また新たに近臣集団を築く必要があった。しかしながらその暇もなく、秦という国家は崩壊してしまったのである。

《新刊『始皇帝の戦争と将軍たち』(朝日新書)では、趙・楚・斉など「六国滅亡」までの壮絶な経緯を詳述している。近年出土の史料が示した「衝撃の新説」とは?》

始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣軍団 (朝日新書)
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