『MUD SLIDE SLIM AND THE BLUE HORIZON』JAMES TAYLOR
『MUD SLIDE SLIM AND THE BLUE HORIZON』JAMES TAYLOR
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 前々回のコラムで「大衆音楽の世界は分業制が基本だった」と書いた。プロの作曲家と作詞家がいて、歌手は、ソングブックに載った作品群から自分にあった曲、歌いたい曲を選ぶ。もちろん、特定の歌手を想定して書かれた曲も少なくはなかっただろう。そして、録音の段階になると、完全なアカペラでなければ、楽器を演奏する人が必要になるわけだが、これももちろん、分業制だった。前世紀前半、レコード業界が発展していく過程では、それぞれの会社に専属の楽団がいて、指定されたスケジュールに沿って仕事をこなしていくというのが、普通、いや、当然のことであったようだ。

 時は流れ、50年代半ばの「ロックンロールの誕生」をへて、レコーディングのスタイルも多様化していく。ビーチ・ボーイズやビートルズのように、ソングライティングも演奏も自分たちでこなすグループの登場と成功が、その変化を一気に加速させた。同時期、たとえばフィル・スペクターのように、分業制の頂点に立ちながら、徹底的に自分の音にこだわるプロデューサーも大きな注目を集めるようになっている。だが、もちろん、一般的な意味での分業制は揺るぐことがなく、ロサンゼルスの場合でいえば、サウンドトラックなどの仕事も含めて、何人ものセッション・ミュージシャン/スタジオ・ミュージシャンが必要不可欠な存在となっていた。

 ただし、この当時の彼らは、いわば無名の存在。ジャケットやライナーノーツに名前がクレジットされることはないし、そんなことを気にする音楽ファンやリスナーもいなかった。演奏家たちに求められるのは、ある程度の技術は絶対条件として、初見で曲の流れを把握し、そつなく、短時間で仕事をこなすことだった。

 しかし、「ウォール・オブ・サウンド」という独自の音を確立したスペクターや、宅録派ビーチ・ボーイとなったブライアン・ウィルソンのプロジェクトなどにかかわることで、セッション・ミュージシャンたちは次第に自分の音を主張するようになっていった。スケジュールと仕事の速さではなく、音の個性によって選ばれるようになっていったのだ。とはいえ、65年に録音されたザ・バーズの《ミスター・タンブリン・マン》や66年から68年にかけてのモンキーズの一連のヒットでは、やはり、彼らはまだ影の存在だった。

 その流れを大きく変えたのが、68年から70年代初頭にかけての、いわゆるシンガー・ソングライター・ムーヴメントであった。たとえば、すでにバッファロー・スプリングフィールドの時代からセッション・ミュージシャンとの創作に取り組んでいたニール・ヤングは、68年録音の初ソロ作品ではライ・クーダー、ジャック・ニッチェ、キャロル・ケイらの名前を明示している。クロスビー・スティルス&ナッシュと、その後にニールも加わったCSNYは、セッション・ミュージシャンとレコードを仕上げて、そのままのユニットでステージにも立つことにより、新しいバンドの概念のようなものを確立した。

 71年にジェイムス・テイラーが発表した『マッド・スライド・スリム・アンド・ザ・ブルー・ホライゾン』では、すべての曲で、ダニー・クーチ、ラス・カンケル、リーランド・スクラーなど参加ミュージシャンと担当楽器が細かくクレジットされていて、それが基本となっていった。そして、これはとりわけ日本で顕著な傾向だったと思うのだが、「○○がギターを弾いているから、買ってみた」などという逆の現象まで引き起こしていったのだ。

 連載6回目で触れた映画『レッキング・クルー~伝説のミュージシャンたち』のなかで、60年代前半、売れっ子のスタジオ・ミュージシャンたちが、影の存在とはいえ、閣僚にも負けないほど稼いでいたというエピソードが紹介されていた。言葉は悪いが、そういった高給パートタイマーとしての仕事に満足し、生活を楽しんでいた人は多かっただろう。しかしその一方で、スタジオでの仕事を一つのステップと考え、実際に大きなものを手にした人も少なくない。その筆頭が、リオン・ラッセル。のちにブレッドのメンバーとして多くのヒットを残したラリー・ネクテル、ロサンゼルスの話ではないが、「バンドを始動させるため」と割り切っていたドゥエイン・オールマンもそうだ。 [次回3/23(水)更新予定]