ANAの国際線を頻繁に利用してくださるお客さまに聞くと、「隣の席がいつも空いていて、ゆっくりと休めていいね」という返事が返ってきて、がっくり肩を落としたことを今でも覚えている。そこで学んだことは、デイリー(毎日)運航でなければ、ビジネスでのお客さまを取り込むのは難しいということだった。
それもこれも成田の発着枠に制約があり、新参者であるANAが増便する余地がほとんどなかったからだ。それでも席を埋めようと頑張るが、結局、安売りに頼らざるを得なくなり、収益が出ない。
関西国際空港が開港したときには、「ここを拠点に反転攻勢に出よう」と路線を拡大したが、当時の関空発着路線では集客は難しく、多くの路線から撤退を余儀なくされた。
社内では「国際線など止めてしまえ」という撤退論がわき起こり、まさに国際線の存亡の危機が続いた。
国際線事業に転機が訪れたのが、98年の日米航空交渉だった。ここでANAは、インカンバント・キャリアといって、日米航空協定において日米間の路線便数を自由に設定できる航空会社に、念願叶ってなったのだ。そしてもう1つ、99年にスターアライアンスに加盟したことも大きな転機だった。
実は国際線に進出したものの、ANAの国際線マーケティングはまだ稚拙で、路線需要予測の精度も低かった。しかしスターアライアンスに加盟したことで国際線ビジネスのあり方について多くを学んだ。路線を整理し、ビジネス路線に注力して毎日飛ばす、という方針転換がなされたのも大きなターニングポイントであった。
当時のスターアライアンスの構想は、加盟航空会社のマーケティング機能をすべて吸い上げて一体経営を実現する、というほど踏み込んだものだった。実際、加盟社を集めて「本社をどこに置くか」という議論さえしていた。さすがに加盟賛成派の社員でも、スターアライアンスに「呑み込まれるのではないか」と危惧する人も少なくなかった。
だが国際線で生き残るには、アライアンスを活用するしか道はない。当時私は、路線開設などに関わる仕事をしていたが、われわれ部課長クラスの“青年将校”たちは、スターアライアンス入りを熱望した。日本の人口構成やアジアの発展・成長を見れば、どう考えても国際線で成長していくしかない。国内線で育ててもらった会社でもあり、国内線は引き続き重要な事業であるが、今後は国際線という柱を育てなければ国内線も守れなくなる。そういう思いだった。