社長時代の基本姿勢は多様な人材を入れて、多様な意見を聴く。「予定調和」を壊し、「組織を揺らす」の言葉が口癖だった(写真/山中蔵人)
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 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年 8月12日-19日合併号より。

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 2005年が明けるころ、りそなホールディングス(HD)の執行役財務部長のときだ。地域密着の金融機関としてサービスを多様化するため、分離していた信託会社の吸収合併を進めた。まず、合併前に信託会社を100%子会社にする。それには、信託会社の株主へ信託株と交換に渡すりそな株が必要だ。

 そこで、ひらめいた。

 金融危機下で資本強化に公的資金が注入された際に預金保険機構が持ったりそなの普通株を買い戻し、それを交換に充てれば、公的資金の返済にもなる。普通株は、市場を流通している株式と同じ。買い取り価格は市場の終値にすればよく、株価に影響を与えない。30代前半に3年いた旧・埼玉銀行の資本市場部で得た知識が、役立った。

 同年2月に買い取った普通株は27億3千万円分。りそなグループへの公的資金の注入額は、金融危機が広がった1998年から03年までに3兆1280億円だから、その1千分の1にもならない。でも、金融界はもちろん社内さえ「無理」と思っていた返済は、始まった。公的資金を完済し、経営の「自立」への第一歩。社内にあった諦めムードが、消えていく。

 82年4月に入行した旧・埼玉銀行は、91年4月に協和銀行と合併し、翌年9月にあさひ銀行へ改称した。バブル経済がはじけ、あさひも他の大手行と同様に系列ノンバンクなどが抱える巨額の不良債権が重荷となり、公的資金の受け入れに追い込まれる。98年8月、体力強化に東海銀行との経営統合を決定し、埼玉県内の支店長から合併担当の企画部副部長へ戻された。生き残り策を考える部が新設されると、その副部長へと移る。

(写真/本人提供)

生き残りのために志望した海外業務も自らの手で幕を引く

 01年5月、海外業務からの撤退を発表した。公的資金で経営が支えられているなか、コストが大きいのに「うちも国際的な銀行です」という見栄など要らない。国内で地域密着の銀行として歩む、と明示した。銀行に就職したのは、海外で仕事をしたかったからだ。それが、自分の手で幕を引く。生き残るには、仕方ない。交渉は、1人でまとめた。このときのキーワードも、子どものころ父が身に付けさせてくれた「自立」だ。

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父の「自立」の教えが、りそな生き残りへ背中を押す