東海との合併協議も、打ち切った。合併に三和銀行(現・三菱UFJ銀行)が参加を求め、協議が複雑化。三和主導の空気が強まるなか、上司の了承を得て離脱する。首脳陣は、次に同じ地域密着型の大和銀行との合併を進めた。協議がまとまり、大和は先行して近畿の地方銀行とともに持ち株会社の大和銀HD(現・りそなHD)を設立。あさひは埼玉県内の支店を引き取る「埼玉りそな」をつくり、あとは大和銀HDと合併した。
大和銀HDは翌年にりそなHDを名乗り、その企画部次長として本社を置いた大阪市で勤務が始まる。この時点でりそなグループへの公的資金の注入総額は1兆1680億円。まだ、もっと大きな嵐が待っていた。
金融当局は03年5月、利益が出ない銀行、赤字に陥る銀行へ思い切った注入を断行した。りそなHDへは、1兆9600億円。「特定の取引先に融資が集中して不良債権化し、健全経営に必要な自己資本が不足している」との理由だ。注入総額は3兆1280億円へ膨らみ、メディアは「実質国有化」と書き立てる。でも、社長会見を2度開き、「国有化」への質問を粛々とさばく。
このとき、経営の立て直しに二人三脚で取り組むことになるJR東日本出身の細谷英二氏の会長就任も、発表された。細谷会長は、公的資金返済の鍵は収益を上げるだけでなく、財務にあるとみて「きみが財務部長をやれ」と命じた。
初めての分野だが「公的資金は必ず返す」と自らに確認し、日々、「どうやれば返済できるか」を考え抜く。冒頭の返済の「第一歩」は、そこから生まれた。東和浩さんがビジネスパーソンとしての『源流』になったという父の「自立」の教えが、りそな生き残りへ背中を押す。
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1957年4月、福岡市中央区で生まれ、福岡県庁の職員だった父、母、妹の4人家族。中学校へ進むころ、自分が「九州を1人で一周したい」と言ったのか、父が勧めたのか覚えていないが、父は「お金は出してやる。その代わり、1日で帰ってこい」と決めた。息子の「自立」の力を、試したのだろう。