首から上の表現が消える
29歳で一年間イスラエルにダンス留学をした経験をはじめ、様々な国でいろいろなパフォーマンスを見たり、クリエイションをする中で、日本のダンサーは欧米のダンサーと比べて首から上の表現が消えることが多いことに気付きました。
自分の性格や個性を首から上に置かないのは能や狂言とつながってくる。日本において「舞う」という行為は、何かが降りてくる土着的な概念の影響が大きいと思っていますが、それによって、日本のダンサーは顔の表現が無自覚的に薄いのだと思っています。
一方、実存主義的な西洋文化の舞台の上に立つパフォーマーは、意識的か無自覚かはわかりませんが、役者にしてもダンサーにしても、その人がそのままそこに立っている感覚がある。
その気づきによって、演じる対象に「それまでのような入り込み方をしなくても、できる表現があるのかもしれない」と思うようになりました。今は自分自身のままでいることも大切にするようになりました。
その場の音像の生々しさ
――第77回カンヌ国際映画祭「監督週間」に日本の長編アニメーションとして6年ぶりに選出された「化け猫あんずちゃん」では、主人公の化け猫あんずちゃんを演じた。「ロトスコープ」とは、実写で撮影した映像からトレースし、アニメーションにする手法だ。映画はこの「ロトスコープ」を駆使して作られた。
森山:もちろん、それぞれの役者さんの身体の動きの艶めかしさ、生々しさというのは感じました。が、今回、一番印象的だったのは、実は「音」です。アフレコもしたんですが、ノイズや環境音も含めて、基本的に実写で録ったそのときの音をそのまま使っているシーンが多くなったようです。視覚的にはアニメーションなのに、距離感が狂うというか、その場の音像の生々しさがすごくおもしろかった。
表情はそんなに動かしていなかったと思うんですが、僕の表情に合わせてあんずちゃんの髯(ひげ)が動いたり耳が動いたりというのを見て、ロトスコープのうまみみたいなものを感じましたね。