ザ・バーズ版《ミスタ・タンブリン・マン》が全米シングル・チャートでナンバー・ワンを記録したのは、1965年6月26日のこと。この少し前から彼らは、バンドとしての演奏力を高める目的もあってサンセット・ストリップ(ロサンゼルスの主要道路の一つ、サンセット・ブールヴァードのほぼ中心に位置する約2.5キロの区間)のクラブで連日ライヴを聞かせるようになり、その噂や評判が全国に広まっていった。言うまでもなく携帯電話も、メールやSNSもまったく想像もできなかった時代のことだが、それは、おそらく若干誇張されながらものすごい勢いで広まり、南部や東部、中西部、カナダで暮らす若者たちの心を刺激した。そして、そのうちの何人かは、ただ憧れるだけではなく、生まれ故郷での暮らしを捨て、ロサンゼルスを目指してしまったのだ。
たとえば、カナダのオンタリオで生まれたニール・ヤングは、1966年春、20歳のとき、中古の霊柩車(!)でロサンゼルスに向かっている。先日亡くなったイーグルスのグレン・フライはミシガン州デトロイト周辺でいくつかのローカル・バンドに参加したあと、68年に、やはりロサンゼルスに向かったという。彼らのような若者たちが、ハンドルを自ら握り、あるいはグレイハウンドの車窓から荒涼とした大地を眺めながらたどったのが、ルート66だった。
のちにニールは、66号線上のニューメキシコ州の都市、アルバカーキを歌にしているし、イーグルスの《テイク・イット・イージー》の歌詞に登場するアリゾナ州ウィンズロウもまた66号線沿いのスモールタウンだ(あの名曲は、ジャクソン・ブラウンがほぼ書き上げていた段階で、グレンが「ウィンズロウの街角で」のパートを加えることを提案し、二人の共作として世に出たものだという)。
ニール・ヤングは、その前年、たまたまカナダを訪れていた無名時代のスティーヴン・スティルスと出会い、「いつか一緒にやろう」という約束を交わしていた。なんとかロサンゼルスで再開することができた彼らは、すぐにバッファロー・スプリングフィールドという不思議な名前のバンドを結成し、やはりバーズのようにサンセット・ストリップのクラブで経験を積んだあと、66年の暮れ、セルフ・タイトル・アルバムでデビューをはたしている。複数のソングライターが対等の立場で曲を書き、演奏のフォーマットも曲にあわせて自由に変化させていくその姿勢は、ロックの新しい可能性を示すものでもあった。
65年に話を戻すと、ちょうどバーズの《ミスタ・タンバリン・マン》が大ヒットしていたころ、LA国際空港とサンタモニカのほぼ中間に位置するヴェニス・ビーチで、新しいバンドが誕生していた。ザ・ドアーズだ。フロリダの生まれで、軍人だった父とともにアメリカ各地で幼少年期を過ごしたジム・モリスンと、シカゴ出身のレイ・マンザレクの出会いがきっかけだった。
ともに名門UCLAのスクール・オブ・シアター、フィルム&テレヴィジョンに学んだ二人は、ランボーやビート派の詩人たちから強い影響を受けていたモリスンの詩と個性的な声、子供のころからピアノを習っていたというマンザレクのキーボードを核にバンドの態勢を固め、66年夏に最初のアルバム『ザ・ドアーズ』を録音している。その後、モリスンが27歳で急逝するまで、《ライト・マイ・ファイアー》など多くのヒット曲を残したバンドだが、のちに『地獄の黙示録』でも使われたあの《ジ・エンド》が物語るとおり、ロサンゼルスの音楽のダークの側面を象徴する存在だったといえるだろう。 [次回2/3(水)更新予定]