「日淸戦争忠勇美鑑」/戦死したラッパ卒が「死んでも口からラッパを離さなかった」ことが美談とされ、広まった。(東京都立中央図書館所蔵)
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 明治維新から30年足らずだった日本は、当時、侮れない存在として「眠れる獅子」と称されていた清とどのように戦ったのか。誰も予想しえなかった日本勝利で終わった日清戦争を、テレビでもおなじみの河合敦さんが8回にわたって解説する。第6回は「旅順口の戦い1894年11月21日」。 

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旅順口の戦い1894年11月21日

 平壌占領後の十月二十五日、清領内の九連城を奪取するため、第1軍は2地点から鴨緑江の渡河作戦を開始。日本軍の猛攻により清側の司令官・宋慶が撤収し、清軍は総退却した。この頃、陸軍は第1師団と混成第12旅団(第6師団の一部)で第2軍を編成し、清の遼東半島の攻略を進めることにした。その後、第2軍には第2師団と第6師団が加わるが、十月下旬、大山巌を司令官とする第2軍(第1師団と混成第12旅団)は、遼東半島の花園口に上陸して金州城を落とし、さらに大連港の砲台を占拠。十一月四日には旅順港を目指して金州を発した。

 旅順周辺は要塞化が進んでいたのに、第2軍は敵の2倍程度の軍勢で攻め入ったのだ。かなり無謀な戦いだったが、日本軍は要塞の弱点といえる案子山砲台に攻撃を集中させ、同砲台を占拠。これにより旅順市内への侵入が可能となった。さらに日本軍が撃ち込んだ砲弾が松樹山砲台に命中、砲台が大爆発した。これを見て志気を喪失した清兵は、持ち場を捨てて旅順市街へと撤退していく。このため、日本軍は要塞周辺の砲台をすべておさえ、旅順市内に入り込んで敵の掃討戦を展開した。ともあれ、第2軍はわずか一日で旅順を占領したのである。

 連戦連勝の日本軍だったが、秋に北京近郊の直隷平野で日清決戦を考えていた大本営や参謀本部にとって、進軍は予想以上の遅さだった。

 理由の1つは、補給・輸送がままならなかったことだ。当時の輸送手段は馬か人だったが、日本の駄馬は体格が貧弱なうえ、道路も劣悪で、多くの荷を運べなかった。現地で軍夫を徴発しても、朝鮮の人々が非協力的で逃亡が相次いでいた。このため日本軍は急きょ、国内から大量の軍夫を雇用することにした。その数は諸説あって定かではないが、約8万9000人にのぼったといわれている。

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もう1つの理由とは