平壌へ突入する日本軍/平壌は高さ約10mの城壁に囲まれた要塞都市だった。日本は苦戦を強いられつつ勝利した。(国立国会図書館所蔵)
この記事の写真をすべて見る

 明治維新から30年足らずだった日本は、当時、侮れない存在として「眠れる獅子」と称されていた清とどのように戦ったのか。誰も予想しえなかった日本勝利で終わった日清戦争を、テレビでもおなじみの河合敦さんが8回にわたって解説する。第4回は「平壌の戦い1894年9月15日」。

【図解】平壌の戦いの展開を見る

*  *  *

平壌の戦い1894年9月15日

 武力衝突が始まった1週間後の八月一日、日本政府は清に宣戦布告した。同日、清もまた日本に宣戦。正式に日清戦争が勃発した。

 大本営は開戦前の六月に東京の参謀本部内に設置されたが、その後、皇居へ移り、さらに九月、広島の第5司令部に移転した。明治天皇も東京から広島に移った。広島は軍港の呉や良港の宇品に近く、神戸からの山陽鉄道が開通しており、朝鮮や清へ向かう軍隊の拠点になっていた。当時は通信手段が発達していないので、国内の最前線たる広島に大本営を移したのである。また、戦争が天皇のリーダーシップのもとに戦われていることを国民に誇示する狙いもあった。大本営は、まずは制海権を掌握して大量に兵を輸送し、朝鮮半島から清軍を駆逐。秋までに北京周辺(直隷平野)で決戦を行い、短期で戦いに決着をつける計画を立てた。

 八月初旬、野津道貫中将率いる第5師団が釜山、仁川、元山に上陸、漢城に集結した。さらに八月末に桂太郎中将率いる名古屋の第3師団が渡韓。九月に両師団をあわせて第1軍が組織され、山県有朋が第1軍司令官に就いた。なお、第5師団は平壌を目指して北上、九月十五日、野津司令官が独断で攻撃を開始した。

 平壌は頑強な内郭と外郭の二重の城壁で囲まれ、郭外には多くの堡塁が備わっていた。清軍は約1万5000、日本軍は約1万2000。兵器も清軍のほうが優れ、攻城戦としては無謀な戦いであった。しかも朝鮮人の反発により軍夫の徴用がうまくいかず、食糧不足だった。

次のページ