明治維新から30年足らずだった日本は、当時、侮れない存在として「眠れる獅子」と称されていた清とどのように戦ったのか。誰も予想しえなかった日本勝利で終わった日清戦争をテレビでもおなじみの河合敦さんが8回にわたって解説する。第3回は「成歓の戦い1894年7月28日〜30日」。
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成歓の戦い1894年7月28日〜30日
東学党の乱を鎮圧するために、清軍約2800は牙山に駐留していた。日本側は漢城の龍山に約1000、さらに大島義昌率いる混成第9旅団約7000を漢城郊外に駐屯させた。この動きをみた清の李鴻章は、高陞、愛仁、飛鯨の3隻約2300を分乗させて牙山に増派し、平壌にも約6000を派遣することにした。こうしたなかで、豊島沖海戦が偶発、高陞は海の藻屑となったのである。一方、大島率いる混成旅団は上陸後すぐに牙山の清軍と戦う計画だった。が、先述のとおり、大鳥公使の要請で朝鮮王宮の占拠に力を貸し、数日予定が遅れた。
七月二十五日、混成第9旅団の主力約3000が牙山へ向けて動き出した。朝鮮政府が国内の清軍の駆逐を日本に要請したというのが戦う名目である。しかしこれは、大鳥公使らが朝鮮政府を脅して無理やり出させた公文だった。
清軍は、成歓に陣地を構築して大砲を備え、主力の約2500名を配置。さらに、東方の罌粟坊主山と西北の銀杏亭高地に兵を分置して日本軍の襲来に備えていた。ただ、高陞が沈没したことで1000名以上の兵が補充できなかった。
対して日本軍も、強制的にかき集めた軍夫が逃亡するなどして補給に苦しみ、さらに地理に不案内なうえ川の増水や深田があり、行軍には難渋していた。
七月二十九日、日本の主力軍は罌粟坊主山へと攻めかかった。かなりの激戦だったが、敵の陣地への侵入に成功すると、清軍は南に後退。大島旅団長は敵の主力は牙山にいると考え、清軍を追撃せずに牙山へ向かったため、清軍は壊滅的な打撃を受けることなく撤退に成功した。
この戦いでの日本側の死傷者は82名、対して清軍は500名以上と陸軍の『明治二十七八年戦史』に明記されているが、清側の損害についてはかなり誇張しているというのが有力である。日本は確かに戦いには勝利したが、朝鮮国内にいる清軍に決定的な打撃を与えることはできなかったのだ。