19世紀後半頃の清における諸外国の勢力範囲
18世紀に東アジアの一大勢力だった清は、19世紀半ばのアヘン戦争での敗北から急速に弱体化。列強による勢力争いの舞台と化した。
地図制作/アトリエ・プラン

 一方、半島から撤退しない日本軍に対し、ロシアやイギリスが強く干渉してきた。陸奥は「朝鮮を支配するつもりはない。内政改革が実行されたら、速やかに兵を引く」と述べてイギリスを納得させようとした。ちなみにイギリスは、朝鮮情勢が切迫していた七月十六日、日本との不平等条約を改め、法権(治外法権)の回復と一部税権(関税自主権)の回復を含む、日英通商航海条約の締結に同意した。その背景には、清や朝鮮に勢力を伸ばすロシアへの警戒感があった。イギリスは、ロシアの南下の防波堤として日本に期待するようになっていた。だから日本と友好関係を築こうと、新条約の締結を決意したのである。

 日清戦争を誘発させようとしていた陸奥外相は、日本が開戦してもイギリスは黙認すると読んだ。ロシアについても、西徳二郎駐露公使から「戦争が起こってもロシアは干渉してこない」という報告が届いていた。その後もイギリスは、日清間の調停に乗り出してきたが、日本が清に厳しい条件を突きつけたこともあり、実現しなかった。七月二十一日には、ページェット・イギリス駐日代理公使が、「日本の案は厳しすぎる。日清戦争となれば、その責任は日本にある」と通告してきたが、陸奥は相手にしなかった。

 一方、日本政府は七月十日に朝鮮政府に対して内政改革を要求、10日間以内の返答を求めた。さらに大鳥公使は七月二十日、朝鮮政府に対し、清との宗属関係の解消や半島からの清軍の退去を求め、返答期限を同月二十二日とした。

 だが、回答が不十分だったので、二十三日、大鳥公使は日本軍(混成第9旅団)を率いる大島義昌少将と相談し、首都漢城に兵を侵入させ武力で朝鮮の王宮を占拠。国王の身柄を確保して政権を倒し、国王の父大院君をかついで傀儡政府をつくりあげた。そして、朝鮮政府に内政改革を強要するとともに、清軍への撤退命令を出させた。この日、佐世保港などからは続々と連合艦隊の艦船が出撃していった。

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