明治維新から30年足らずだった日本は、当時、侮れない存在として「眠れる獅子」と称されていた清とどのように戦ったのか。誰も予想しえなかった日本勝利で終わった日清戦争を、テレビでもおなじみの河合敦さんが8回にわたって解説する。第1回は「日清戦争勃発」。
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日清戦争勃発
明治二十七年(1894)五月、農民の大反乱である東学党の乱(甲午農民戦争)を自力では制圧できなくなった朝鮮政府は、翌月、宗主国の清に出兵を依頼した。
天津条約に従って清は朝鮮への出兵を日本側に通告してきたが、日本政府もこの動きを察知しており、ただちに大本営を設置。朝鮮半島へ派遣する混成旅団の編成を開始するとともに、六月十日、帰国していた大鳥圭介駐朝鮮公使を海軍陸戦隊とともに仁川に上陸させた。こうして日本軍は仁川に、清軍は牙山に駐屯してにらみ合いを続けることになる。
日清両軍の激突を恐れた朝鮮政府は反乱軍と和を結び、朝鮮国内は落ち着きを取り戻した。このため、治安の回復や在留邦人の保護を目的に出兵した日本は、軍隊を駐留させておく名目がなくなった。それは、清も同様であった。
そこで大鳥公使は、陸奥宗光外務大臣に、「乱が沈静化したいま、これ以上半島に兵を増員することは、列国に疑念を抱かせるのでやめてほしい」と増援軍の派遣を断った。すでに大鳥は六月十二日より、清軍と撤兵の交渉を始めていた。ところが、日清開戦に持ち込みたい陸奥外相は、大鳥公使に日本政府の提案に清が同意しなければ撤兵しないと通告。具体的には、日清共同で東学党の乱を鎮圧すること、日清両国委員による朝鮮政府の改革断行であった。提案に関して清は、「すでに乱は鎮まっているし、改革は朝鮮政府が自らで実行すべきで、他国が干渉する事柄ではない。天津条約にしたがい両軍は速やかに撤退すべき」と返答した。陸奥の提案は当初から拒絶されることを前提としたもので、もくろみ通り清側の拒否を受け、日本政府は清に絶交状を送りつけた。