だからアスリートには向かない。そのくせ、身体性で物を考えるから、行動はスピーディーで、この点はアスリート的である。だけど長続きしない。すぐ違うこと、別のことに目移りするので、ひとつのことに熱中できない。あれもしたい、これもしたいと、好奇心の強い子供みたいになってしまう。そんな性格だから絵を描いても、自分の特定の主題や様式が持てないので、日替わり作品を描いてしまう。
画廊は展覧会をする度に異なった絵を出品するのでコレクターが、どれが横尾の絵かわからないといって、買うことに躊躇してしまう。評論家は評論家で脈絡がない作家は取り上げにくい。気が多い上に飽きっぽいので、作家のイメージが固定しにくい。だから当然、評価の対象から外れてしまい、投資の対象にもなりにくい。子供は何をやってもすぐ飽きる。僕はその子供の習癖をそのまま大人になっても手放さない。なぜなら大人になりたくない症候群だからで社会性と切り離された創作時にはそのまま幼児の未熟性が出てしまうのである。その上、多義的なマルチプルな性格だから、ひとつのアイデンティティーに絞れないときている。ある意味で近代主義(モダニズム)的な絵画制作にはほど遠い性格といっていいだろう。だから時代の要請に合わすことができないのである。
ところが、現代は社会そのものが多義的な要素を必要としている。すると人間も社会に対応するためには多義性が必要となり、マルチ人間も出てくる。幸い僕の性格がそのままこのマルチ社会に適応することになり、僕の作品の多様性がそのまま社会の要請と合致し始めることになった。社会の要望にわざわざ合わせる必要もなく、僕の多義的な自然にそのまま対応するだけでいいということになった。時代が逆に僕に合わせてくれたのである。
人間の如何なる性格も社会と切り離して存在していないので、必ずいつか、どこかで社会と一致する瞬間と遭遇するので、わざわざ性格を変えようと努力などする必要はいっさいないのである。逆に社会と対応するために、わざわざ性格を変えたり、合わせたりする必要もない。人間が自然の一部であるように人間は社会の一部でもある。だから極力自分の性格を認識し、自らの性格を全うすることを必要とすればいい。うまくいっていない場合は多分、自分の性格を生かし切れていないからである。自分の性格に忠実であろうとしないで、誰かの生き方をまねても、自分の性格にないものは身につかない。おっちょこちょいな性格ならそのおっちょこちょい性を生かす職業を探せばいい。怒りっぽい性格なら、それを生かすプロレスやボクシング選手になればいい。どんな性格だって必要としているのがこの社会である。社会に適応しない性格などないんだから。必ずピタッと当てはまるようになっているはずだ。
横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰
※週刊朝日 2023年4月14日号