その付箋を1枚はがし、書かれた問いに対し、相手が腹に落ちたと思うまでやり取りする。それを、みんなにも聞かせる。終われば、次の人の付箋をはがし、体に貼った付箋がなくなるまで続けた。最後に「きみたち部店長が納得したわけだから、同じことを部下たちとやってくれ」と指示する。これを3班やって、約5時間をかけた。

 何もはっきり伝えなくても、言いたいことは分かってやってくれるだろう。そんな「以心伝心」で、組織が目指す頂へ到達するのは、至難だ。全員と直に話し、それぞれが「自分は何をすべきか」を理解して最善を尽くさなければ、目標には届かない。これは、鳥取県立米子東高校で野球部のキャプテンをやったときに、身に染みていた。

 高校2年生の夏、県大会で剛腕の3年生投手を擁しながら、準決勝で敗退した。その後で新キャプテンに選ばれ、翌年の甲子園を目指すが、秋の県大会で力は自分たちのほうが上だと思っていた高校に、1対9で惨敗する。そこで、考えた。2年生部員は他に6人いたが、個性派揃いで自分で考えた方法で練習して、指示をしても聞かない。「自主性があっていいか」と思ったが、チームとしてどう戦うかの協調性がない。

 キャプテンとして一人一人の考えを聞き、全体の姿を描き合う。やがて自主性に協調性が加わり、翌春からいい形の試合が続き、夏の甲子園を目指す県大会を迎える。前年のようなプロ野球選手になるほどのエースはいなくても、順調に勝ち進み、決勝戦へ臨んだ。相手は、秋に1対9で大敗した高校。1番打者で、センターを守った。先取点を奪い、押し気味に試合を進める。だが、中盤に1対1に追いつかれ、9回裏にサヨナラ負け。悔しくて、涙が出た。

「いいチームだった」敗退後に湧いてきた予想もしない気持ち

 でも、敗退から数日後、予想もしなかった気持ちが湧いてきた。「いいチームだった。みんなが個性を発揮しながら一つにまとまり、準決勝で負けた前年よりも一つ上へ進んだ」。自主性と協調性の融合──森田敏夫さんがビジネスパーソンとしての『源流』に挙げる体験だ。

 1961年4月、鳥取県米子市で生まれる。父は会社員で母と弟の4人家族。小学校6年生で野球を始めて市の大会で優勝し、中学校と米子東高校で野球部に入る。米子東は、春夏の甲子園大会へ何度も出た野球の強豪校。進学校だけに部員は少なく、そのぶん、練習が厳しい。授業中、眠ることが多かった。

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