英国在住の作家・コラムニスト、ブレイディみかこさんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、生活者の視点から切り込みます。
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テムズ川で行われる毎年恒例のオックスフォード大学とケンブリッジ大学のボートレースでのことだ。今年はケンブリッジ大学が勝利したが、レース後、BBCのインタビューに答えたオックスフォード大学の選手の言葉が大きな話題になった。
「水中にあれほどPOO(うんこ)がなければ、もっと良かったんでしょうけど」
唐突な単語の出現に、耳を疑った人もいただろう。STOOL(排泄物)ですらない、ストレートな言葉の選択に選手の怒りが込められていたと思う。
かく言う私も、以前はママ友たちとテムズ川でカヌーを漕いでいた。小規模ながらレースに出たこともある。が、コロナ禍が終わり、数年ぶりにテムズ川にカヌーを浮かべた時、水の異変に気付いた。やけに茶色く濁り、白い泡状のものが浮かんでいる地点もあった。そして、川で泳いで嘔吐したという人の話を付近のパブで聞いた時、私たちはロンドンとその近郊でカヌーを漕ぐのをやめたのだ。
英国ではトイレの排水と雨水が同じ下水管を通って下水処理施設に運ばれる。だが、大雨などで輸送能力を超える水量が下水管に流れ込むと、逆流を防ぐため、川や海に処理前の水が放流される。雨が続くと放流する汚水が増えると水道会社は苦しい言い訳を続けてきた。しかし、近年の著しい川の水質の劣化は、水道会社がインフラへの投資を怠ってきたせいだという批判がいよいよ高まっている。英国の水道事業は1989年に民営化されているが、昨年6月のYouGovの調査では、水道事業の再国有化を求める人々が69%にも達していた。
ロンドンでは1858年の夏にGreat Stink(大悪臭)と呼ばれる非常事態が発生した。汚水槽が溢れテムズ川に下水が流れ込み、猛暑でバクテリアが発生して尋常でない悪臭を放ち、議会や裁判所の業務にも支障をきたすほどだったという。これがロンドンの巨大な地下下水道の建設に繋がったわけだが、歴史はまた繰り返されようとしているのではないか。民営化された事業の再国有化は時代遅れと言う声もあるが、19世紀の異常な事態を21世紀に再現するよりもはるかに近代的だろう。
※AERA 2024年4月22日号