日本にはコンビニ店数の約3倍近い数、約16万基もの古墳が存在する。日本が誇る古墳文化の楽しみ方を、その種類から造営方法まで、古墳見学を楽しむハウツーを6回にわたって伝授する。第3回は古墳を代表する形といえばこれ「前方後円墳」について。
より大規模に墳丘を高くして
権力の象徴となっていった
古墳のなかで最上位に位置する「前方後円墳」の特徴は、やはり、その大きさと独特の形状である。
墳長は大山古墳(大阪府)の486m、誉田御廟山古墳(大阪府)の425mが2トップ。それ以外に300mを超えるものが上石津ミサンザイ古墳(大阪府)、造山古墳(岡山県)、河内大塚古墳(大阪府)など西日本に6基あり、200mを超えるものを含めると合計39基。200m以上の古墳はいずれも前方後円墳に限られる。
きれいな鍵穴の形の古墳もあれば方形部がやや細めや太めに造られるなど、築かれた時代の流行が認められる。たとえば3世紀の箸墓古墳(奈良県)は、被葬者が埋葬された後円部より前方部が細く、前方部の頂から後円部の方向に向かって緩やかなスロープを描く。
同じ奈良県でも、その少し後、3世紀後半の西殿塚古墳は後円部の最上段がやや高く、4世紀の行燈山古墳、渋谷向山古墳は突出して墳丘の最上段が高くなっている。また5世紀前半には前方部の幅が後円部の直径を超えるものが現れた。古墳時代中期に向け、全体的に巨大化していったのも、被葬者の権力を示すための動きとみられる。
後円部で注目すべきは、墳丘上に設けられた方形の区画である。周囲を円筒埴輪で方形に囲み、さらに墳丘頂上の周囲にも円形に円筒埴輪を置いた。円形は神々の住まう天、方形は人々の住まう地を表すと考えられ、被葬者が統べていた共同体の再現および、土地の豊作と繁栄を願ったと考えられる。
ただ、この前方後円墳は7世紀初めになると築かれなくなり、用明天皇(聖徳太子の父)の頃以降、大王の古墳も方墳に変わる。聖徳太子が主導した天皇を中心とした中央集権国家体制が指向された時期に重なり、前方後円墳を権力の象徴とする体制が転換されたと推測される。
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世界三大墳墓の一つに数えられる大山古墳。高さではピラミッドが世界一だが、全長で比べると230mのピラミッド、350mの始皇帝陵を上回る。
比較すると大山古墳の巨大さがわかる。