京都弁のアクセントで話すが、中村は東京出身。阪神・淡路大震災が発生して間もない1995年1月末に生まれた娘を、両親は多伽と名づけた。伽には「慰めたり楽しませたりするために、人に寄り添う」「看病する」などの意味がある。
「本当だったら被災地に駆けつけるのに、おなかが大きくて行けなかった。自分の願いをこめたのかもしれません」
看護師である母の蕗子は、そう振り返る。
中村は、都内の中高一貫の進学校である吉祥女子に通った。中2で出合った演劇にのめりこみ、高校生になると声優や舞台俳優を夢見てオーディションを受け続けた。高3の夏、「どうしてもやりたかった」という、ある映画のヒロイン役の一般公募に挑んだが、あえなく書類審査で落ちた。
起業する人を応援する 他力本願だからタリキ
失意のなか、関西へひとり旅に出る。そのときに京都大学総合人間学部のオープンキャンパスに参加し、舞台芸術学の講義を見学した。ユニークな学生が多い校風に憧れて猛勉強し、半年後の2013年、同大同学部に入学する。
ところが、1年生は舞台芸術学を履修することができず、芸能オーディションの機会も東京のように多くはなかった。完全に、目標を見失う。
そんなある日、大きな転機が偶然訪れる。同級生に誘われ、彼の先輩が学内で立ち上げた活動に参加することになった。カンボジアに小学校を建てるのだという。しかもNPOに依存せず、建設地の選定から資金調達、れんがの仕入れ、建設作業の手伝いまで、全部自分たちの手でやる。
代表だった岩崎洸樹(31)は、クラウドファンディングで100万円調達するミッションを中村に託した。当時はこの方式の認知度が低く、個人的な声かけによる募金への誘導が必須だった。自他ともに認める大の負けず嫌いで、どんなことにも全力を注ぐ中村は、目標金額をきっちりと達成したあとで初めて、「二度とやりたくない」と不満を口にしたという。
「彼女らしいな、と思いました。普通の人は心地よい妥協点を見いだせるけど、彼女にはそれができない」
岩崎のあとを引き継いで代表になり、16年3月に2校目の小学校を建てた。地域住民から感謝されて嬉しい半面、「社会課題は構造的なものである」という気づきを深め、自分たちの無力さを痛感した。近くに学校ができて通えるようになった子もいれば、家計を支えるために学校へ行けず、働く子もいる。教員は薄給で仕事を掛け持ちし、良い授業ができない。一方で、教育を司(つかさど)る役所の長は高級車に乗り、大粒の宝石が燦然(さんぜん)と輝く指輪を左右の手にいくつもつけていた。