音楽家でアーティストの坂本龍一さんが3月28日、死去した。所属事務所が4月2日に発表した。71歳だった。
坂本さんは、2014年に中咽頭がんを患っていることを発表。コンサート活動の中止を強いられ、療養生活を送った。その後、20年6月には直腸がんが発覚した。
昨年12月にはオンラインで全世界にピアノコンサートを配信。公の場に姿を見せた最後の姿になった。所属事務所によると、がんの治療を受けながらも、体調の良い日は自宅内のスタジオで創作活動を続け、最期まで音楽とともに過ごしたという。
幼い頃からピアノと作曲を学び、東京藝術大学に入学。大学院を修了後、1978年にはミュージシャンの細野晴臣さん、高橋幸宏さんとともに「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」として活躍し、“テクノポップ”という新たなジャンルを築いた。
YMOが83年に「散開」したあと、坂本さんは「戦場のメリークリスマス」で俳優としても活動。手がけたテーマ音楽は代表曲の一つにもなった。
アエラでは、YMOが散開して20年がたった2003年、坂本さんにインタビューをした。バブル、冷戦終結、失われた10年…自らの音楽やYMOのこと、YMO以後の「成熟と喪失」の時代を語っていた。ここでは当時の記事を再掲する。
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テクノポリス・トーキョー、だったよね、あの頃は。
携帯電話もファミコンもなかったけれど、老若男女がインベーダーゲームに熱中し、デジタルという新しい感覚が私たちをしだいにとりこにしていった。70年代後半から80年代初めは、日本がいちばん元気だった時代。ウォークマンが世界を席捲し(79年)、自動車生産台数はアメリカを抜いて世界一になった(80年)。フジヤマ、ゲイシャにかわって、「ソニー、ホンダ」がテクノロジーの国・日本の新しいアイコンになった。
アメリカ、ヨーロッパ進出を果たし、逆輸入という形で日本に「テクノポップ」旋風をまきおこしたYMOは、そんな新しい潮流の中心にいたスーパーユニットだった。斬新なテクノカットにキッチュな人民服。ビジュアル系なんて言葉はなかったが、YMOは間違いなく時代を先取りしていた。
「ニュージーランドへ撮影に行ったとき会った白人がね、なんか目のなかに星がキラキラしているような状態で。戦後、日本から何かを発信することはなかったから、ほんとは僕らもドキドキしているし、向こうもドキドキしててね」