つむじが二つあった少年(写真:本人提供)

 自宅近くの神社に友だちを集めて、紙芝居をやり、終わったら甘納豆を売ってくじをする。すると、みんな喜び、完売だ。代金の小銭を手に帰宅すると、母に「そのおカネ、どうしたの?」と問われる。自慢げに顛末を話すと「何を考えているの。誰が甘納豆を買ったのか、言いなさい」と怒られ、一緒に一軒一軒、返金しにいった。

 代金目的でやったわけでは、ない。ここで得たのが「人に喜んでもらうことの楽しさ」で、情報誌「ぴあ」が生まれる道へつながった。矢内廣さんのビジネスパーソンとしての『源流』が、流れ始めたときだ。

「月刊ぴあ」の創刊号は1万部刷り、2千部売れた。もう少し売れると思っていたのでがっかりしたが、店頭に置いてくれる書店を増やしていく。販売部数は伸びて、79年9月に月刊から隔週発売へ増やし、85年に関西版、88年に中部版も発刊した。

 映画の良しあしは、観た本人が判断すればいい。提供するのは「いつどこで、何を上映しているか」の基本情報だけ。「この映画はいいから、観たらどうか」と勧めることはしない。周囲の大人たちは「無謀だ」と言った。でも、そんな姿勢が、時代の若者たちに支持された理由かもしれない、と思っている。

 1950年1月、四倉町に生まれる。漁港が近い温暖な地で育つ。父母と3歳下の弟の4人家族。父は近隣のセメント会社に勤め、自宅で書道教室を開いていた。町立大浦小学校へは、内陸部へ30分ほど歩く。このころ母が連れていってくれた映画の一つが『喜びも悲しみも幾歳月』。いまも、覚えている。もちろん、東京などでの最初の上映から、日数がたっていた。

アルバイト仲間と深夜に語った夢が「ぴあ」を生んだ

 中学時代から県立磐城高校のころは、「発明」に凝った。特許の出願寸前までいったが、必要な5万円を父に出してもらえない。そんな状況で、勉強は手薄。大学受験で浪人し、前から「東京へいきたい」と思っていたので、68年春に都内の予備校へ入る。初めて親元を離れ、アパート暮らし。翌春に中大法学部へ進んだ。

暮らしとモノ班 for promotion
「更年期退職」が社会問題に。快適に過ごすためのフェムテックグッズ
次のページ