母に買い物へいかされ社会性を学ばされた。釣り銭が合わず叱られ店へ戻ると母の間違いと分かり、「絶対的な母にも間違いがある」と衝撃を受けた(撮影/狩野喜彦)

 日本を代表する企業や組織のトップで活躍する人たちが歩んできた道のり、ビジネスパーソンとしての「源流」を探ります。AERA2024年4月1日号より。

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 1972年7月10日、月刊情報誌「ぴあ」を創刊した。東京都内でやる映画、演劇、コンサートなどの情報を、網羅する。都内の千代田区神田駿河台にあった中央大学法学部の4年生、22歳のときだ。

 映画が、子どものころから好きだった。故郷の福島県四倉町(現・いわき市)で高校を卒業するまで、よく観にいった。大学でも映画研究会に入り、学園紛争で授業がないときなど「映画漬け」の日々を過ごす。故郷ではチャンバラ映画や森繁久彌の「社長シリーズ」など邦画ばかりだったが、東京では洋画がふんだんに上映されていた。

 衝撃だったのは、フランス語で「新しい波」を意味する「ヌーベルバーグ」と呼ばれた作品だ。撮影所での経験なしに登場したフランスの若い監督らが、50年代半ば以降に斬新な手法で創ってブームを起こし、上京後に東京の名画座で観ることができた。ただ、どんな映画がいつどこで、いくらで上映されるのかが、分からない。映画誌や新聞の情報では、全く足りない。

 考えて出した答えが「自分で情報を集めて、雑誌にすればいい」だ。それも料金が高い新作のロードショーだけでなく、遅れて上映し、安く観ることができる2番館や3番館の情報も載せる。そうすれば、自分のように小遣いが少ない若者たちが喜ぶだろう。映画だけでなく演劇や音楽の情報も載せれば、もっと喜んでくれるに違いない。

母がつくった甘納豆小分けして売ると友が喜んでくれた

 この「人を喜ばせたい」との思いは、故郷で経験した「甘納豆事件」に始まる。小学校3年生だった。近所の駄菓子屋で売っていた1袋5円の甘納豆が、美味しくて、毎日のように買って食べた。おもちゃなどが貰えるくじが付いているのも、楽しみだった。そんな様子をみて、あるとき母が鍋一杯の甘納豆をつくってくれる。

 1日で食べきれないので、考えて、友だちに分けてあげることにした。駄菓子屋のように袋に小分けし、同じ5円でも量を多く入れ、くじも付けた。賞品も甘納豆にして、3等、2等、1等の順に量を増やす。漫画を描いて紙芝居をつくっていたので、好きだった漫画のキャラクターで紙芝居も用意した。

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