アルバイト三昧のなか、テレビ局の下働きをやったとき、いろいろな大学からドラマ好きや音楽好きが集まっていた。週に1度、泊まり込み勤務があり、一緒になった4、5人とテレビ局近くの居酒屋へいき、深夜に夢を語り合う。やがて思い浮かんだのが、映画の情報誌だ。

 都内中野区に6畳間と2畳間が続く部屋を借り、2畳間は布団を敷きっ放し、6畳間が「月刊ぴあ」の編集室。テレビ局がアルバイトを辞めるときにくれた5万円で、まだ贅沢品だった電話も引き、名刺もつくる。スタートアップだ。73年3月に中大を卒業し、74年12月に会社を設立して社長に就く。苦労は、たくさんあった。スタートアップには、いまでもそうだろう。

 77年12月、「ぴあ」創刊6年目に都内の撮影所を借り切り、ぴあ展を開いた。著名な映画監督らの20代の作品と自主製作映画、新しい劇団の公演など、34時間ぶっ通しで延べ1万3千人を集めた。このときの自主製作映画展から、いま人気の「ぴあフィルムフェスティバル」(PFF)が生まれる。「甘納豆事件」で始まった「人を喜ばせたい」の『源流』からの流れは、勢いを増していた。

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 その極みが、84年4月のオンラインで鑑賞券を販売する「チケットぴあ」のサービス開始だ。ここからネット販売専用の「@チケットぴあ」の開設、携帯電話を使ったチケットレス販売の「電子チケットぴあ」と進み、2011年7月に情報誌「ぴあ」は休刊。ただ、情報の紙への印刷は終わっても、『源流』からの水量は減らない。

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