アキは、高校生になるまで北三陸を訪れたことはありません。東京生まれの東京育ちで、デタラメな方言を話す「ニセ岩手県民」。芸能人としての資質もB級です。大女優・鈴鹿ひろ美から「女優には向いていない」と断言されており、歌も得意ではありません。

 アキは最後まで、「スキル」や「根性」の点では「アマチュア」です。自分でも「オラは『プロちゃん』にはなれない」と口にします。彼女の「武器」は、「自分がなんとかしてあげなくちゃ」とまわりに思わせ、結果的に多くの人を動かすその「キャラ」です。それを活かして、「よそ者」で「演技も歌も今イチ」なまま、アキは北三陸になくてはならない存在になっていきます。「本物」にふさわしい「資質」はなくても、「自分らしく振るまうこと」によって「本物」になる――アキが達成したのはそれでした。

 アキの親友でパートナーのユイは、「地元の名士の家」に生まれた「お嬢さま」です。彼女ははじめ、東京に出て「アイドル」になることを夢見ていました。

 都会に行って何ものかになる――2008年にリーマンショックでとどめを刺された「消費文化の時代」に、多くの女性がとりつかれていた「欲望」です(助川幸逸郎「なぜ小泉今日子は2010年代に『再浮上』したのか?」dot.<ドット> 朝日新聞出版 参照)。こうした「時代おくれ」の目標は、当然、達成されません。ユイの上京は、一度は父親の病気によって、もう一度は震災によって阻まれます。

 震災に見舞われた北三陸にもどったアキは、ユイに告げます。「ユイちゃんに北三陸が一番いいぞって教えるために帰ってきた」。これを聞いてユイは叫びます。

「よし、決めた! こうなったら私はもう、ここから一歩も出ない! 東京なんか行かない! 私に会いたければみんな北三陸に来ればいいんだもん!」

 こうしてユイは、「時代おくれ」の夢を卒業します。注意すべきなのは、「青い鳥は自分のかたわらにいた」という「古典的真理」に、ユイが目覚めたのではないことです。 

 かつてアキが所属していたアイドルユニット・GMTのメンバーが、チャリティー・ツアーの途上で北三陸にやって来ます。彼女たちとアキがはしゃいでいるのを見て、ユイは激しい嫉妬に駆られます。これをきっかけにユイは、潮騒のメモリーズ再起動に向けて動き出します。GMTは、「地方」から「東京」に集められたメンバーで構成されています。そのひとりひとりの「たいしたことのない様子」が、ユイを揺さぶったのです。

「東京」と「地方」の格差の意味はかつてと変わりました。現在では、コンビニエンスストアが全国に行きわたり、ネットで情報や商品を得たり送ったりも可能です。「東京でしか手にできないもの」や「東京からしか送れないもの」はわずかです。

 とすれば、東京まで行かなくても、充実した「アイドル活動」を展開できるかもしれない。ユイが気づいたのはこの点です。そして、GMTの「たいしたことのなさ」を見て、さらにその思いを深めたわけです。物語終盤、上京して芸能活動をすることを勧めるプロデューサーの太巻を、彼女はこういって拒みます。

「東京も三陸も私に言わせれば日本なんで……お構いねぐ」

 大女優・鈴鹿ひろ美は、ドラマの結末で「歌」を獲得します。並みはずれた音痴であった彼女は、アキの母である天野春子に、歌の吹き替えをゆだねていました。春子の故郷の北三陸に行き、自分自身の声で歌う――彼女はそれを、震災後に再建された「海女カフェ」でのチャリティー・コンサートで実現させます。この結果、「ニセモノ歌手」であった過去から、鈴鹿ひろ美は解きはなたれました。

 アキは「『本物』にふさわしい『属性』をもたなくても」。ユイは「東京に行かなくても」。鈴鹿ひろ美は「代役を立てなくても」。彼女たち3人はそれぞれ、「ありのままの自分」に何をつけ加えることなく「再生」します。今、すでに持っている道具や能力でできること――それをやっていくことが「復興」への道である。『あまちゃん』は、そういうメッセージを発しているようです。

 そんな『あまちゃん』の中で、小泉今日子がになった役割とは、果たして何だったのでしょうか?

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