普段は自分の目も届かないような心の奥底を、さっと光がすべっていく。その道筋に、たくさんのがらくたが浮かび上がる。ああ自分はこんな余計なものを持っていた、あれもこれも不必要な思い込みだった。でも苦い思いが湧くだけじゃない。同じ光によって照らし出されるものの中には、ささやかな宝物も存在するし、やり直していくための地図もある。まだ行ける、がらくたは整理して、宝物をぎゅっと手ににぎって、この先に行きたい――希望と呼べるのかわからないほど小さいが、確かな気持ちが生まれる。

 吉本ばななさんの小説が私に一番作用した時は、そんな感じだった。ちなみにそれは『彼女について』という小説を新刊単行本として読んだ時だったのだけれど、多分、彼女のどの作品にも、そういう作用はあると思う。私は、吉本さんの描く物語は、結局のところ魔法なのだと思っている。「大丈夫、生きていける」読んだ人をそういう気持ちにさせるための魔法が、活字の形を取って存在しているのだと。

 今作『ふなふな船橋』も、例外ではない。圧倒的な部数を持つ朝日新聞夕刊での連載、そしてこの連載を境目に彼女が「よしもとばなな」から「吉本ばなな」へ再改名したこともあって、私は「いつもと違う感じになるのかな」と思っていた。噂によると、ゆるキャラのふなっしーも登場するらしいし。でも、その予想はいい意味で裏切られた。『ふなふな船橋』は、いつもの吉本さんの小説だった。

 複雑な育ちをした女性が、あるショッキングな出来事を境目に、自分の置かれた環境を捉え直す。このあらすじは彼女の作品の多くに共通するもので、私は、呪文や祝詞に型があるように、それが吉本さんの「魔法」のひとつの型なのかなと勝手に思っている。

 今作の特徴は、物語の発端となる「ショッキングな出来事」が、失恋という、多くの人が経験するものになっていること。主人公の立石花は27歳。2年付き合い、結婚の話もし、遠方の実家にも顔を出した仲である恋人から、心変わりを理由に突然振られてしまう。花は、その瞬間まで描いていた未来を失う。残されたのは、「仮の生活」だと思っていた今のこの暮らしだけ――。

 こういうことは、失恋に限らず、いろんな形で、いろんな人の人生の中にあると思う。ある程度自分の希望に沿った生き方はしていても、いつかもっと世の中における「普通」に近い形で生きる時が来る――恋人と結婚し、自分が愛している仕事を辞めて彼の家業を手伝うことを、「ほんものの大人の人生に移行する」と、花は物語の冒頭で表現しているが、そんなふうにして当然のように待っていた「移行」が、起こらない時がある。就職活動が実らなかったり、努力してきた仕事を辞めざるを得なくなったり、女性であれば、結婚後なかなか妊娠できなかったり。『ふなふな船橋』は、そんな時に自分の手の中に残った「仮の生活」を見つめ直していく物語だ。

 花が自分の生活と人生を見つめ直す過程はちょっと特殊で(非常に吉本さんの物語らしくて)、現実にそのままやり方をスライドさせられるようなものではない。でも、物語はやり方を学ぶためにあるのではなくて、読めばもう効いているのだ。多分、この「魔法」が作用する条件が一番整った人なら、読むだけで花と一緒にぼろぼろ泣くだろう。『彼女について』を読んだ時の私みたいに。

 また、この作品では、物語世界と私たちが生きる現実をしっかり結びつけるための帯として、船橋の街とふなっしーが用意されている。都会と田舎の中間で、著名な史跡や観光地があるわけでもない、物語の舞台にはなりにくい街が、主人公の記憶を通してかけがえのない街として描かれるのだ。船橋にはふなっしーがいるけれど、それで船橋が特別なわけではなくて、そういう「妖精」はどの街にもいるように、このお話を読むと思える。

 ちなみに、ふなっしーはこの物語の中では、「梨の妖精」と表現されることが多く、「中に人がいるけど、同時に妖精でもある」という捉え方をされている。ふなっしーをタレントや芸人だと思っている人は読みながらのけぞってしまうかもしれないけれど、「ふなっしーは、うるさいようでも内側はいつも落ち着いていて冷静だから、その部分を見ているとほんとうに落ち着くんです。」(P.44)など、慧眼だなあと思わされるふなっしー評も挟まれ(あくまで花の台詞であるが)、妖精というのもいたって冷静な見方なのだとわかる。

 私は、吉本さんだけでなくふなっしーのことも大好きだ。シビアだけれどどこかに明るさのある物語に、ふなっしーはいい具合に溶け込んでいるように感じた。「ふなっしーと吉本ばなな」という組み合わせを興味本位で覗きたいだけの人も、読めば意外と「魔法」にかかるかもしれない。