『スローモーション考』『文学を〈凝視する〉』をはじめとする著書を通じて、小説や詩に表されていながら、そうと言われるまで人が気づかない機微や機構(メカニズム)を明らかにしてきた阿部公彦氏が批評の名手であることは、既に人の知るところであろう。『幼さという戦略』はその最新著である。
言葉の整理から始めよう。「幼い」という言葉はもっぱら生物に使われる。つまり、生まれてから死ぬまで変化し続ける生物について、幼生、幼年といえばその最初の時期を指す。成体、成年から見て未成熟の状態という意味だ。
加えて人間の場合、この言葉は身体と精神のそれぞれについて使われる。例えば、語の用例を古い順に並べる『日本国語大辞典』(小学館)で「おさない」を引くと、筆頭にはこんな語義が見える。「考えが未熟である。おろかである。しっかりした思慮分別がない」。おお、なんだか散々な言いようだ(ちょっと耳も痛い)。用例が『日本書紀』や『土佐日記』であるところを見ると、日本語としては古層に属するのだろう。これは精神面を形容する用法である。いずれにしても、「幼い」という形容は、未熟であり、これから成熟へ向かって成長してゆく、不十分な状態というわけだ。
さて、著者はこの本で「幼さ」に注目する。といっても、あちこちに「幼さ」「未熟さ」を見いだして、けしからんと批判しようというのではない。そういった、分かりやすいが創造性のない態度とは無縁である。文化において、とりわけ日本の文学作品において「幼さ」はどのような役割を果たしてきたか。これが本書を通じて探究される問いである。その際、著者の「幼さ」に対する姿勢は極めて肯定的だ。「幼さ」には固有の力や価値があるというのである。
こう聴いて、読者諸賢は議論の行方を予想できるだろうか。ここで俎上に載せられるのが、少年少女を主人公とするライトノベルスやマンガ、アニメやゲーム、あるいはアイドルなどであれば話は分かりやすい。これらは「幼さ」を主要な材料として仕立てられたものだからだ。
しかし、本書の目次を見るとお分かりのように、太宰治、村上春樹、武田百合子、多和田葉子、萩原朔太郎、江藤淳、小島信夫、古井由吉と、いずれも一見すると「幼さ」や「未熟さ」とは程遠く思える固有名が並ぶ。どういうことか。
例えば、太宰の『人間失格』は、なぜ読みやすいと感じられるのか。なぜ多くの読者を魅了してきたのか。クリアですんなり読める、いわゆる名文というよりは、むしろなんだか頼りない話者のうねうねと続く長ったらしい語りが、時に曖昧で何を言いたいのかもよく分からず、時に言いよどんだりもして、どちらかというと入り組んだ韜晦気味の文体であるというのに。
面白いことに、著者は、ここにこそ太宰の読みやすさがあると指摘する。こうした「未熟さや不器用さを装う語り」が読者に対して親しみやすさの感覚をもたらすというのだ。経験と知恵のある成熟した者が、未熟な幼い者に教え諭すような語りを、上から下への語りと譬えれば、『人間失格』の話者は、自ら下に立つことで、相対的に上に置かれた読者を油断させるというわけである。
同様に、著者は「幼さ」というレンズを通して、文学作品のそこかしこに描かれていながら、密かで必ずしも見やすくはない力学の所在を浮かび上がらせている。本書全体にわたって多様に展開される議論を敢えて要約すれば、幼い未熟な存在こそが、かえって成熟の限界や不自由さを顕わにし、別の生き方を指し示すことができる、となろうか。ちょうど子どもが無知のゆえに分別ある大人を質問攻めで困らせ、そこに例えば真実に向かう道が開けるように。
顧みれば、とりわけこの百年ほどは、理性的な人間や合理的な主体というモデルがさまざまな面において疑問に付され、再検討される時代だった。人間は思ったほど理性的でもなければ合理的でもなく、不完全で認知も偏り(バイアス)にまみれた存在だということが、幾重にも確認されてきた。そうした前提に立って人間や社会を捉え直そうという気運は、本書と軌を一にするものといってよい。
それにしても、かつて成熟した人間などいたためしがあったのだろうか。むしろ未成熟とは人間の常態なのではないか。というよりも、そのつど人をなにかに向かわせるために(例えば資本の増大に貢献させるために)、成熟や成長というモデルが無限遠の理想として提示され、人を「未満」の状態に位置づけ急き立ててきたのではないか。幼さに独立した意味を見いだすということは、そうした価値観に亀裂を走らせ、人間の条件を捉え直すことでもあるはずだ。
もうお分かりかもしれない。本書は、文学作品を読む眼を新たにするばかりか、私たち自身の来し方行く末を考えるためのヒントに満ちた価値転換の書なのである。