『私は元気がありません』
朝日新聞出版より発売中

 最後に原稿を読んだのは一月四日だった。あれから一ヶ月くらい経った今、読み返していない。家に届いた見本もパラパラ捲るだけだ。だって、もう赤入れられないから。原稿の直しは全部で三回。その度赤く染まった紙の束は今、美しい装丁に包まれて微動だにしない。それはついに発売されるってことの証明で、嬉しいはずなのに、運動をやめた文字たちがちょっぴり怖かった。

「小説TRIPPER」に渡した初稿、初校、再校。書籍化するにあたっての改稿、初校、再校。物語はどんどん姿を変えた。今、本に掲載されているものとまるで違うお話だった瞬間もある。渡す時には「これだ」と思っていた物語が、返ってくる時には「少し違う」になることを確認しなくてもわかるくらいには小説を書くことができた。「ここ超つまんないな」とかって思う度に落ち込んで、何クソ今度こそって赤。

 覚悟を決めて封筒の口を閉じたのは郵便屋さんが到着してからだった。もう引き返せないとなってぽっかり空いた昼下がりをどうしよう。舞台稽古に通うカバンの中に読みかけの本があることを思い出して、とりあえず読もうと紙に触れた。真っ白の紙に、黒い字がずらっと並ぶ。ついこの間までは見えなかった無数の赤が見えるような気がした。静止している字たちの残像が、紙の上を滑る。全ての小説家が、この作業を踏んでいる。どんな偉大な作家もきっと、返ってきたゲラをしわくちゃにしながら、時には消しゴムで紙を破ったりもしながら、過去の自分と向き合っているのだ。えー。みんな凄すぎでは? 私、一回目でこんなに参っちゃってんのにさ。何十回も何百回もやってる人いるわけでしょ? 心ぶっ壊れないの? ようやく気分が上向いて、もう何十回も読んでいる大好きな本を手に取った。この本も、きっといつかは真っ赤だったのか。二十年以上前に出版されたこの本を、作者は今読み返したりするんだろうか。その時、この人はどう思うんだろう。私は、どう思うんだろう。字の代わりに顔が真っ赤になるんだろうな。それでもしかして、この世に散らばる自分の本を集めて、真っ赤に焼いてしまうかもしれない。

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