悲しんでいる時間もなかった
亡くなった直後は、「悲しみに暮れる時間もないほど大変だった」と振り返る。
「私たちとしては密葬が終わるまでは、瀬戸内が亡くなったことを伏せていたいと思っていました。ですが、亡くなった日のお昼ごろには情報がどこかから漏れてしまったようで。マスコミから電話があったり、数社が寂庵の前に張り込んだりしていました。瀬戸内が亡くなったというのは重大なニュースですし、それを報道するのが記者の仕事だと頭ではわかっていても、心がついていきませんでしたね……。『こんなときくらい、そっとしておいてほしい』というのが本音でした」
密葬を終え、亡くなってから1カ月後には、一般向けの偲ぶ会を開催。その後に、僧侶としての本葬を京都市の妙法院で執り行った。当時を「目まぐるしい日々だった」と瀬尾さんは振り返る。
「本葬を終えた後、すぐに出産してという感じで、悲しんでいられない状況が続きました。実際に亡くなるまでは、先生が亡くなることを想像しただけで涙が出てきたりとか、もし先生が亡くなったら、部屋に引きこもって、何も食べられなくなってガリガリに痩せてしまうんじゃないかと思っていたんです。でも、そんなことを考える余裕すらありませんでした」
この間、瀬尾さんは身を粉にして働いていたが、心身ともに疲弊してしまったという。
「瀬戸内が亡くなった分、秘書として頑張らなきゃっていう気持ちがものすごくあって。先生が生きてたらこう言うだろう、こうしなさいと言うだろうって考えて行動することが、自分にとって正解だと思って、視野が狭くなっていました」