写真と文:熊谷正

特にお気に入りの場所は、東大の西側、本郷通りに面した細い路地の広がる旧森川町。このあたりは「大学前」と呼ばれた地区で、明治時代から下宿街として発展し、雰囲気のある建物がそこかしこにあった。

「東大の赤門の近くには『洋食屋さん』っていう感じの安いレストランがあって、店に入ると学生たちでにぎわっていた」

そんな本郷通りから路地に入ると、小さな広場のような五差路に出る。ここが旧森川町の中心で、半世紀以上前、昭和を代表する写真家・木村伊兵衛が洋館のある街かどを撮影した場所として知られている。

一方、谷さんは古い建物を背景に五差路にあるカーブミラーにカメラを向けた。

「ミラーが何となく、迷宮の入り口のように感じられてね。そこに入り込むと、どこかに行っちゃうみたいな虚構の世界。そういう雰囲気があった」

さらに五差路から北へ少し歩いたところで、大きな木造3階建ての下宿「本郷館」をカメラに収めた。1905(明治38)年に建てられたもので、大正時代は東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大)の寄宿舎として使われていたという。

「この下宿屋はもう取り壊されてしまいましたが、周囲には旅館がいくつもあって、ぼくが中学生のときに修学旅行で東京に行った際に泊まりました。なので、このあたりを歩くと懐かしい」

旧森川町の西隣にある「菊坂」は、かつて樋口一葉が暮していた場所で、細い路地の奥で撮影した写真には古いコンクリートの階段や手押しポンプの井戸が写り、当時の面影を残している。

江戸川乱歩と団子坂

一方、荒川区、台東区、文京区にまたがる「谷根千」は、神社仏閣が並ぶ静寂な雰囲気と下町情緒あふれる観光地のにぎわいが混在している。

そこで写した作品の一つが喫茶店「乱歩。」。店の外には曲がりくねった煙突のようなパイプが伸び、そこに看板がぶら下がっている。そんな「外観が面白くて、店に入った」。熊谷さんはカウンター越しにコーヒーカップを配して店内を撮影した。

店名の由来である江戸川乱歩は、喫茶店の近くにある「団子坂」で古書店を営んでいた。団子坂は出世作『D坂の殺人事件』の舞台であり、夏目漱石や森鴎外の作品にも団子坂が登場する。

一方、レトロな理容室や住宅の庭に植えられた柿の木を写した作品もある。

「こういう写真は、学生時代に久しぶりに実家に帰ったときの雰囲気とか、子どものころ、柿の実をとった記憶とかを思い浮かべて写したと思うんです。つまり、ぼくは何か特定の場所を追いかけて撮影したのではなくて、懐かしさとか、郷愁を感じる風景に向けてシャッターを切った」

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写真は記録であり記憶