――委員長を引き受けて、どうでした?
大変でした(笑)。その当時、みんなで決めたことがいつの間にかなかったことになって誰かの意見が通っているみたいなことがよくあって、すごくもめた。それで、まず最低限のルール、何をもって決定とするのか、その決定事項を変えたいときはどうすればいいのか、といったことから決めていきました。
集まっているのはいわゆる自然科学系の人ばかりで、こういう経験があまりない人が多かった。
――それで見事に任務を果たしたのは素晴らしい。準備委員会委員長からそのまま代表理事になって、でも1期だけで退いたんですね。
かなり悩みました。代表理事は男女2人で務めることになっていて、女性でやってくれる人はあまりいないだろうと勝手に責任感みたいなものを感じていたんですけど、コロナが落ち着いてきて、海外出張も入ってくるだろうし、学術会議も忙しくなる時期で、とても無理かなあと思って。「何で立候補しないんですか、困ります」みたいなことは言われましたが……。
――なんだか、いつも自然体でいらっしゃる。
私は計画しないタイプで、これまでの人生けっこう紆余曲折あったんです。父親は東大卒ですが、やっぱり紆余曲折あって。私は小さいころから父によく似てると言われていました。私、いまはバツイチのシングルマザーです。
――え! いきなりそこに行かないで順番にお伺いしましょう。お生まれは?
岡山市です。両親と2学年下の弟の4人家族で、母は県庁の総合職で定年まで勤めました。父は小児科医です。最初はロケットを作りたくて阪大を目指したらしいんですけど、1浪している間に社会に関心が出てきて東大の経済に進んだ。入ってみたら学生運動末期で、それに少し関わり、卒業後は岡山に戻って県庁に就職し、母に出会って私と弟が生まれた。
それから、私が病弱だったこともあり、働きながら受験勉強して岡山大の医学部に入りました。私が保育園のころです。医者になってしばらくして開業し、今は全部後輩に譲って、趣味とかやりたかったことをやっています。
――へ~。
子ども心に「変わった親だな」と思ってました。うちには車がなく、テレビもなかった。テレビがないことにしんどい思いはありました。劣等感というか。小学校では、みんなの話についていけない。SMAPも見たことなくて、なんか5人いるらしい、ぐらいしか知らない(笑)。両親に「何でテレビがないの?」って聞いたんですけど、「うちに必要ないから」って。
海外旅行には保育園のころからよく連れて行ってもらいました。どこだったかパッと出てきませんが、アジアの島に4、5回かな。中1のときにフィリピンに行ったのが家族での最後の海外旅行でした。
それで小学生くらいから世界の貧困問題とか紛争とかに関心を持ち、図書館で「国連で働くには」とか「外交官の仕事とは」みたいな本を借りて読んでいました。そのうち、現場の状況と国際的に決まる政策とはかなりギャップがあるとわかってきて、自分の目で見て自分で判断できるようになりたいと思うようになった。
――それ、小学生のときに思ったんですか?
そうですね。ちょっとませてたかもしれない。