【鴻上さんの答え】
飛行機さん。そうですか。前回(2023年3月号)の相談の時は、「あと1年くらいの余命だとも言われた」と書かれていましたが、病気の進行は早かったのですね。
飛行機さん。つらいでしょう。苦しいでしょう。 前回の相談の時に、飛行機さんは「仏教の本を読んで、生命について考え、答えを見つけようとしていますが」と書かれました。そして、「答えなんてないのかもしれません」と続けられました。
宗教は、人間の死を定義づけてくれます。天国があるとか、魂は不変だとか、やがて死者は復活するとか、生まれ変わるとか、寿命だとか、さまざまな宗教がさまざまな「死の意味」を教えてくれます。
それは、死が不合理そのものだからだと思います。
飛行機さんは、「死というのは最悪のことなんでしょうか」と書きますが、僕は死は不合理そのもので、いかなる理屈も定義づけも不可能なものだと思っています。
「挑戦してみなよ、死ぬわけじゃないし」という言い方で「最悪」と思われることもあれば、「大往生」「殉死」なんて言い方で死を肯定する言い方もあります。
つまりは、死は解釈不能な不合理であり、だからこそ、なんとでも解釈できるから、人間は定義づけしてきたのだと思っているのです。逆に言えば、あまりに不合理だから、混乱しないために定義したということです。
僕は22歳の時に劇団を旗揚げしました。旗揚げメンバーの一人、岩谷真哉という俳優を、結成3年目にバイク事故で失いました。
俳優になるために生まれてきたような花のある若者でした。岐阜県の実家でのお葬式では、岩谷のお母さんは取り乱し、泣き叫んでいました。その姿を見て、僕達劇団員も泣きました。「半狂乱」というのは、こういう姿なのかと胸に突き刺さりました。
一周忌の法要で、お母さんは淡々と「お坊さんに言われたんです。寿命だったんだと。真哉は22歳で寿命を全うしたんだと」と僕達に語りました。
一瞬、僕は、「22歳が寿命なんてあるわけない」と反発しそうになりました。でも、目の前のお母さんの顔を見て、言葉をのみ込みました。1年前、半狂乱だったお母さんは、疲れて淋しそうな顔でしたが、混乱はしていませんでした。