鴻上尚史さん(撮影/写真映像部・小山幸佑)
鴻上尚史さん(撮影/写真映像部・小山幸佑)

 12歳の息子の喪い、表面的には通常どおりの生活を送っても息子を思い出さない瞬間はないと打ち明ける56歳父親。息子の死を「ネガティブでないことと」として捉えたいと問う相談者に、鴻上尚史が「死は不合理そのもの」と示したうえで、相談者に伝えた「死の意味」とは。

【相談211】12歳の息子を喪った苦しみから抜け出せず、何とか息子の死をポジティブに捉えることはできないものでしょうか(56歳 男性 飛行機)

 以前お便りした者です。そのとき、私の次男ががんになり、余命宣告されたことをお伝えし、鴻上さんから温かいお言葉を頂きました。本当にありがとうございました。その後、病気の進行は早く、次男は亡くなりました。12歳でした。亡くなって半年たった今、残された家族(妻、高3の長男)は表面的には元気に、通常通りの生活に戻っています。

 しかし悲しみがそう簡単に癒えることなく、私自身にしてみれば、毎日布団から起き上がって仕事に行き、通常の生活をしていること自体が不思議でなりません。あんなことが起こったのに、普通に生きている自分が信じられません。毎日、毎分、毎秒、思い出さない時はありません。少年のままこの世を去った次男は本当に可愛くて、愛おしくてたまりません。鴻上さんがどなたかの人生相談の中でおっしゃっていた「大きな喜びをくれる対象は、同じくらい大きな哀しみをもたらす」という言葉をまさに痛感しています。

 鴻上さんへの質問です。死というのは最悪のことなんでしょうか。私たちは日常生活で何の疑いもなく「挑戦してみなよ、死ぬわけじゃないし」とか「怒られたって、命までとられるわけじゃないからいいじゃん」と言ったりします。これはつまり、死は最悪中の最悪で、もっとも不幸なことだ、という前提に立っています。でも、子供を亡くした身からすると、それが「最悪」だと決めつけられると、本当につらくなります。次男の写真を見たり、思い出したりするたび、大きな悲しみと苦しみを感じます。このままだと、「次男―死―悲しみ」という連想が断ち切れず、苦しみから抜け出せません。こういうことを言うと不謹慎だと言われるかもしれませんが、何とか、この次男の死をポジティブに捉えることができないかと思ったりします。実際、病気からくる痛みや抗がん剤による苦しさから息子は解放されて、もう痛くないんだよ、良かったねと話しかけています。12年間、家族と一緒に過ごせて良かったね、とも思います。これから先に待ち受ける人生の苦しみを味わわなくて良かったのかも?とも思ったりします。これは間違っていますか? 何とか、死を不幸で最悪でタブーなことではなく、もっとポジティブなこと、少なくとも「ネガティブでないこと」として自分の中で捉えられたら、もう少しこの苦しみも楽になるのではないかと思います。鴻上さんのご意見を伺いたいです。

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鴻上尚史

鴻上尚史

鴻上尚史(こうかみ・しょうじ)/作家・演出家。1958年、愛媛県生まれ。早稲田大学卒。在学中に劇団「第三舞台」を旗揚げ。94年「スナフキンの手紙」で岸田國士戯曲賞受賞、2010年「グローブ・ジャングル」で読売文学賞戯曲賞。現在は、「KOKAMI@network」と「虚構の劇団」を中心に脚本、演出を手掛ける。近著に『「空気」を読んでも従わない~生き苦しさからラクになる 』(岩波ジュニア新書)、『ドン・キホーテ走る』(論創社)、また本連載を書籍にした『鴻上尚史のほがらか人生相談~息苦しい「世間」を楽に生きる処方箋』がある。Twitter(@KOKAMIShoji)も随時更新中

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