30代の小泉今日子は、「当たり障りのない無難なもの」を着るという姿勢を取るようになっていました。これは、「どれだけ冴えたアイテムを消費するか」によって他人から抜きん出る態度の対極です。このころ――1990年代後半――の彼女が、「消費文化」とは縁遠いところにいたことがわかります。SATCを夢中で観ていた同世代と、小泉今日子は根本からちがうのです。
世紀末から2000年代にかけては、「小泉今日子と異なるタイプの女性たち」が、時代の先端を走っていました。小泉今日子がこの期間、「渋い」存在に見えたのはその影響です。
アイドル時代の小泉今日子も、時流の渦に飲まれているように見えながら、冷静に状況を見さだめていました(助川幸逸郎「もしも『なんてったってアイドル』を松田聖子が歌っていたら」dot.<ドット> 朝日新聞出版 参照)。彼女には、一時のトレンドに巻きこまれない独特のバランス感覚があるようです。
2008年のリーマンショックによって「消費文化」が衰退しはじめた現在、スポーツカーを乗りまわしたり、高級ブランド品で身を飾ったり――そういうライフスタイルは、「時代おくれ」と見られるようになっています。必死で「恋愛」を追い求めていた私の知り合いの女性たちも一変しました。彼女たちは今では、
「実際的な面と精神的な面、両方で助けあえるパートナーがいればいい」
といったことを口にします。「恋愛」と「消費」をむすびつけて考えなくなったのです。食文化にこだわっている人々も、「シャンパンを飲んでキャビア」という方向は求めません。「自然食」とか「地球にやさしい食生活」とかが、現在では「フード・エリート」のあいだでトレンドです。
2008年と2010年に、SATCの映画版が作られました。TVドラマ版同様、「消費文化」志向の強い女性層をターゲットにした内容です。とくに2010年公開の第二弾は、主人公四人組がファーストクラスの飛行機でドバイに乗りこむというストーリーでした。その時代遅れな「バブル感」は、アメリカでも日本でも、共鳴を呼ぶどころか非難・失笑を浴びました。この事実からも、先進諸国が足なみをそろえて、「消費文化」の終焉を迎えていることがわかります。
エッセイストの山崎まどかに、『女子とニューヨーク』(メディア総合研究所)という著作があります。そのなかで、SATCのヒロイン・キャリー=ブラッドショーが論じられています。山崎によれば、キャリーは<地方からNYに出てきて、「特別な誰か」になろうとした女性>の代表なのだとか。
だとすれば、『あまちゃん』の春子は、「挫折した和製キャリー」ということになります(上京してアイドル歌手になろうとして夢破れ、故郷にもどったわけですから)。「消費文化」の時代の象徴がキャリーとするなら、そうした時代の終焉を、身をもって語る存在が春子です。
そして、『最後から二番目の恋』の千明は「恋や結婚をあきらめかけた中年のキャリアウーマン」。中井貴一演じる長倉和平と、「恋人」というより「人生の道づれ」としてかかわります。彼女も、「恋愛」から「消費のユニット」という意味が失われた「今」を体現するキャラクターです。