「チャチャタウン」の名は、北九州の言葉で語尾につける助詞「ちゃ」を重ねて、楽しさを表現した。直営で運行する観覧車は、コストが賄えるまでの収入はなくても、市内に持っていた動物園を閉鎖する代わりの「市民サービス」と、位置付けた。「みんな、部下たちが視察結果から、考えてくれた」と振り返る。部下の手柄を、自分のものにしない。これも、倉富流だ。
『源流』は、その前に西鉄インの展開を始めたときに、水量を増した。ここでも、サービス内容の設定に、先行事例を部下たちと50カ所ほどみた。そして、サービス案づくりは、部下たちに任せる。「すぐそばにいて、待つ」で大事なのは、答えを待ってあげるだけでなく、いつでも相談できるように「そば」にいることだ。だから、机は部下たちの近くに置き、どんな話でも「なるほど」と頷きながら、一段上の目標へと助言する。
1953年8月、吉井町で生まれる。町は05年3月に浮羽町と合併し、うきは市ができた。県南部で筑後川が流れ、大分県日田市と接している。
高校を出るまで勉強も遊びもしない でも黙っていた両親
父は高校の英語と商業の教師で、母と姉2人の5人家族。田園地帯でゆったりと育ち、久留米市にある県立明善高校を卒業するまでクラブ活動に打ち込むこともなく、勉強もしないけど遊びもしない。それでも両親は何も言わず、本人がやりたいことをみつけるのを「すぐそばにいて、待つ」を貫いた。
東京へ一度は出てみたかったので、担任教師の母校だった青山学院大学の法学部へ進み、やはりゆったりと、4年間を過ごす。アルバイトは、時給のいい夜間の建設現場や競馬場の厩舎の警備員を選ぶ。誰かと話すことも少なく、性に合っていた。
就職活動では「東京は暮らしにくい」と思い、福岡の銀行と西鉄を目指す。銀行は町に支店があって名前を知っていたし、西鉄は町をバスが走り、プロ野球の西鉄ライオンズ(現・西武ライオンズ)の試合を観たことがあった。結局、西鉄を選び、78年4月に入社、天神大牟田線の久留米駅で研修を受けた。