
空を見上げて笑う
ヴェンダース:僕が印象に残っているのはクランクインの前日です。美術部が作ってくれた平山さんのアパートは、装飾が少し多かった。そこで役所さんに「必要じゃないと思うものは全部外してください」とお願いした。テーブルも椅子も半分以上のものを外して撮影に入りました。まさに平山さんが「清掃」してくれたおかげで、彼を反映する部屋になったと思います。
役所:僕が印象的だったのは毎朝、平山がアパートを出るときに空を見上げて笑うシーン。監督が「ちょっと笑って」とおっしゃるんですが、台本には「笑う」「怒る」などが一切書かれていないんです。「どう笑うんだろう?」と思ったのですが、メモを見て初めて「ちょっと笑う」の感覚が理解できました。
ヴェンダース:僕は感情を脚本に書いてしまうのが怖いんです。それは役者がその場で作り上げるもの。事前に書いてしまうと処方箋を書いてしまうような感じがして。今回、脚本の最初にニーナ・シモンの曲の歌詞を書いたんです。
《It’s a new dawn/It’s a new day/It’s a new life For me/And I’m feeling good》(新しい夜明けだ、新しい一日だ。僕にとって新しい人生だ。僕はいい気分だ)
これこそが平山さんのエッセンスです。役所さんはそれを完璧に理解して終盤にこの曲が流れるシーンで素晴らしい演技をしてくださった。あのシーンでは撮影中にカメラマンが泣いていたんです。僕も感極まりながら「ちょっとカメラは止めないでよ?」とハラハラしていました(笑)。
役所:実際に運転しながらの演技だったので、けっこう難しいシーンでした。平山が運転するときに流れる曲は常に現場で実際に流れていて、演技の助けになりました。
小津安二郎の影響
──戦争やパンデミックなど暗いニュースが多いなか、平山の穏やかさや謙虚さは世界をやさしく照らすようだ。いまなぜ、こうした物語を描いたのだろう?
ヴェンダース:パンデミックを経て新しい時代の始まりを感じ、それにふさわしい作品を作りたいと思っていました。そんなとき東京に来て、日本の方々が公園など公共の施設を大切にし続けていることに心を打たれたんです。ヨーロッパではパンデミック後、公共の場でよい振る舞いをしようという心が失われてしまったんです。そのときに平山さんという人物を思いつきました。こういう方が本当に存在するかはわかりません。でも役所さんが演じてくださったおかげで、僕はいま平山さんが絶対にいると信じている。たぶんみなさんもそう思ってくださると思います。