『凧あがれ 結実の産婆みならい帖』
朝日文庫より発売中
時代小説を書きはじめて、丸八年になった。私の作品の主人公のほとんどが仕事を持つ女性である。稲荷ずし屋、読売書き、巫女、酒問屋の女将、茶店のおばあさん……本書『凧あがれ 結実の産婆みならい帖』の主人公、結実も産婆としてひたむきに働いている女性だ。
それは私自身がずっと働き続けてきたことと無縁ではない。大学を卒業して二年目から、ライターとして数々の出版社に出入りし、さまざまな女性誌の編集者とタッグを組んできた。
コムデギャルソン、ヨウジヤマモトなど日本のデザイナーブランドがファッション界に飛び出していった時代だった。どの編集部も熱気に満ち、早朝から夜遅くまで灯りが消えることがなかった。
パソコンもワープロもファックスもなく、「ぺら」と呼ばれる二〇字×一〇行の原稿用紙に、一行一七字詰めなら一七のところに赤線をひき、原稿を書く。間違えたら消しゴムの出番で、直しが重なると原稿用紙はよれよれ、手の縁は鉛筆のすれで真っ黒になった。
編集部の隅には「お局部屋」と呼ばれる机が並ぶ一角があり、朝まで缶詰めになることもあった。白々と空が明るくなると、妙にハイな気分になって、ライター仲間と軽口をたたきあったことを今もよく覚えている。
子どもが生まれ、生後四か月で職場復帰したものの、保育園のお迎えがあるので、午後三時スタートの取材までしか引き受けられなくなった。「そんなライター、使えねえ」といわれたこともあったが、時間制限があるのを承知で、二人目の子を抱えてからも声をかけ続けてくれる編集者に恵まれたのは幸運だった。
ライター時代の前半は、生きがい、自分のキャリアなど、いわば自分のために働いていたのだと思う。
夫が突然の心臓発作で亡くなって、私が家の大黒柱になったのは四六歳のときだった。仕事への向き合い方がそれから変わった。子どもたちを育て生きるために原稿を書く暮らしがいやおうなく始まったのである。次につながるように腰をすえて仕事をするようになった。小さな記事でも、読者の胸に響くものに仕上げたいと取り組んだ。自分はどう思うかを自問することなしに原稿は書けないが、少しずつ深く考えられるようになった気がした。切れ目なく原稿を書きながら、自分の中の扉や窓が開いて、その先に広がる新しい風景に出会うことも増えていった。