一〇月二九日には、より高度な治療を受けるべく、ヨルダン経由でフランスのパリに飛行機で移送され、ペルシー仏軍病院に入院した。だが、治療の甲斐なく昏睡状態に陥り、同年一一月一一日に同病院のベッドで、七五年の波乱に満ちた生涯を終えた。

 彼の後任大統領には、PLOの幹部を長年務めたマフムード・アッバスが、二〇〇五年一月一五日付で就任したが、彼は若き日にテロ攻撃を指導した「武闘派」アラファトとは対照的に、ソ連の大学に留学した経験を持つ学者肌の人物(歴史学の博士号を取得)で、イスラエルに対する過激な武力闘争には批判的な立場をとっていた。

 こうしたアッバスの「穏健派」という特徴は、パレスチナ西岸地区では一定の支持を得た反面、ガザ地区で絶大な支配力を握る「対イスラエル強硬派」のハマスからは強い不信感と敵意を向けられることとなった。なぜなら、アッバスはかつてパレスチナ自治政府の首相としてイスラエルのシャロン首相と交渉を行い、イスラエル側の言い分にも耳を傾けて譲歩する姿勢を見せていたからである。

 9・11から一年後の二〇〇二年六月二四日、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領は「パレスチナが独立国家としてイスラエルと平和に共存することを求める」との声明を発表し、この認識に基づく中東和平に向けた「ロードマップ(行程表)」も提言した。三年後の二〇〇五年末を目途に、パレスチナ国家の樹立を実現するべく、三段階の具体的な交渉内容が列挙され、アメリカとEU(欧州連合)、ロシア、国連の四者がパレスチナ国家の実現に向けた支援を行うことも明記された。

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ハマスにとってアッバスは信用ならない相手