また、分離壁の連なる線が、イスラエルとパレスチナ西岸地区の境界でなく、西岸地区内に入り込む形で作られた「イスラエル(ユダヤ)人入植地」とパレスチナ人居住地域の間に設定されていることも、パレスチナ側の不満と怒りを増大させていた。

 この不条理な分離壁の建設については、イスラエルの一部の政治家ですら「あまりにひどい」と感じ、一九六七年の第三次中東戦争勃発前の境界に沿うようにしてはどうかとの提言を行った議員もいた。だが、シャロン首相はその提言を拒絶し、イスラエル国民の多くも自国政府のやり方を支持する意志を示した。

 二〇〇三年一〇月二一日、国連は分離壁の建設中止と即時撤去を求める決議を採択し、国際司法裁判所も「分離壁の建設は国際法に違反しており、パレスチナの住民の権利を不当に侵害している」との撤廃勧告を、二〇〇四年七月九日にイスラエル政府へ送付した。しかしイスラエル側は、これらの勧告を無視し、分離壁のさらなる建設を進めていった。

「PLOの顔」アラファトの死とアッバスの登場

 9・11から三年が経過した二〇〇四年一〇月一〇日、パレスチナ自治政府のアラファト議長(大統領)が突然体調を崩して病に伏した。地元の医師団による診察と治療を受けたものの、容態は一向に改善せず、アラファトは日に日に衰弱していった。

次のページ
アラファトの死とアッバスの台頭