翌87年の日本シリーズでは、“異次元の野球”で巨人を圧倒する。3勝2敗で迎えた第6戦、2回1死二塁、ブコビッチの中飛でタッチアップした二塁走者・清原が一気に本塁をついて先制点をもぎ取った。「三塁に止まるだろう」の油断を見澄ましての鮮やかな“奇襲”に、巨人・王貞治監督も「2回のはただの1点ではなかった」と唇を噛んだ。

 さらに2対1の8回2死一塁、秋山の中前安打で一塁走者・辻発彦が球史に残る大激走で一気にホームイン。センター・クロマティが緩慢な送球をするというデータに基づいて、シリーズ最終戦まで隠していた秘策が2年連続日本一をもたらしたばかりでなく、V9時代の巨人の隙のない野球が、V9戦士だった森監督によって西武に受け継がれていることをファンに印象づけた。

 88年も星野中日の挑戦を4勝1敗で退け、3年連続日本一に輝いた西武だったが、翌89年はシーズン終盤、近鉄に逆転され、まさかの3位に沈む。シーズン後、森監督が堤義明オーナーから「(来年も監督を)やりたければ、どうぞやってください」と冷たくあしらわれた話は有名だが、この堤発言が「日本一になって見返そう!」とナインの起爆剤になる。

 90年、2位・オリックスに12ゲーム差をつけ、ぶっちぎりでパ・リーグを制した西武は、日本シリーズでも「全能を傾けて」(森監督)前年の覇者・巨人を4タテ。完敗を喫した巨人ナインが「この4連敗は野球観が変わるほどのショックを受けた」(岡崎郁)と脱帽するほどの強さを見せつけた。チームリーダーの石毛宏典も「1勝の重みをみんなが感じてやってくれた。素晴らしいチーム」と絶賛した同年の西武は、黄金時代の絶頂期と呼ぶにふさわしいものがあった。

 その後も91年は広島、92年は野村ヤクルトを下し、3年連続日本一を達成したものの、いずれも4勝3敗と苦戦した。長年勝ちつづけたことによるチームのマンネリ化は否めず、1億円プレーヤーが相次いで誕生した結果、90年のドラフトでは全国的に無名だった高校生投手・長見賢司(伊丹西)を1位指名するなど、新人の獲得予算も縮小しつつあった。「勝っているときこそ補強に力を入れないと、チーム力はあっという間に落ちる」と懸念していた“球界の寝業師”根本陸夫管理部長も92年オフ、ダイエーに移った。

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