今季はオリックスが3年連続リーグVを達成した。パ・リーグの連覇記録は、西武が1990年から94年まで記録した「5」だが、もし、西武が89年も優勝していたら、85年からの4連覇と併せて、リーグVでは巨人のV9を上回るV10も夢ではなかった。80年代から90年前半にかけて一世を風靡した西武の黄金時代を振り返ってみよう。
西武鉄道グループの国土計画(現コクド)が福岡を本拠とするクラウンライターライオンズを買い取り、所沢を新本拠地に西武ライオンズが誕生したのは、78年10月だった。
クラウンから交渉権を引き継いだ前年のドラフト1位・江川卓の獲得こそ失敗に終わったものの、巨人と激しい争奪戦の末、ドラフト外最大の目玉・松沼博久、雅之兄弟を獲得。“球界の盟主”相手に1歩も引かない積極果敢な姿勢は、巨人に代わって球界ナンバーワンの座に就こうとする意欲の表れでもあった。さらにトレードで阪神の主砲・田淵幸一を獲得するなど、大規模な補強を行い、“台風の目”と期待されたが、1年目の79年は、開幕からNPBワーストタイの12連敗を記録し、テールエンドに沈んだ。
だが、どんなに負けても、少年ファンたちは一生懸命声援を送りつづけた。当時漫画のキャラクターにもなり、子供たちの間で人気ナンバーワンだった田淵は「阪神時代は3三振でもしようものなら、ものすごいヤジが飛んできた。なのに、西武では子供たちから“次は頑張ってください”と言われて、えっ?と思ったね。この子たちのためにも今度は勝ったろうと、胸が熱くなった」と回想している。
以来、「最下位のチームを優勝まで持っていこう」を合言葉に一致団結し、広岡達朗監督が就任した82年に初の日本一を実現。翌83年も日本シリーズで巨人を4勝3敗で下し、西武黄金時代が幕を開けた。
広岡監督のあとを受けて、86年に就任した森祇晶監督も、ルーキー・清原和博をはじめ、若手を育てながら勝つという難しい条件を課せられながらも、見事育成と勝利の両立に成功する。清原は高卒1年目に31本塁打を記録し、チームも広島との日本シリーズで3連敗のあと4連勝という劇的勝利で3年ぶりに日本一を奪回。当時は画期的だった米国への野球留学組からも秋山幸二や工藤公康が台頭してきた。