批評家の東浩紀さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、批評的視点からアプローチします。
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『訂正可能性の哲学』(ゲンロン)という本を出版した。哲学書だが一般読者でも読めるように工夫している。
訂正可能性とは聞き慣れない言葉だが、要は、行政の設計や政治的な議論において、もっとも重要になるのは「訂正できること」だという主張の本である。細かい紹介は控えるが、ウィトゲンシュタインの言語哲学やアーレントの公共性論が背景にある。
なぜそんな主張を本にしたのか。それは、いまの日本ではまさにその「訂正」こそが難しくなっており、そのせいで社会のあちこちが軋んでいると考えたからである。
日本は政府が謝らない。都合の悪い情報は隠す。それは大きな問題だが、今は批判勢力も同じように頑なだ。
典型的なのがいま進行中の福島原発の処理水騒動だ。処理水の安全性は確認されている。放出しか選択肢がないことも説明されている。にもかかわらず左派は方針転換ができなくなっている。東電の責任追及と処理水放出容認は、本来は切り離された話だ。けれどそういう話にならない。